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名鐔師「信家」の秘密 その9 「武人信家」 さて、金家鐔について現在までの研究界の推移を振り返り、現時点でなせるある程度の考察を成してみたが、金家についてはまだまだ述べるべきかなり妖しい部位がある。しかしそこの部分を説く為にも当時の金工界の実体をもっとグローバルな立場で捉える必要があると思うのである。 ともあれ中世から近世にかけての文化的転換期に美作で育まれた兵法と冶金技術が色々な系脈を通じ水面下にて不思議な影響を与え、新たな文化が醸成していった過程があった事は事実である。そして戦国末期頃から精緻にして華美なる美術鐔が無数に現れてきたが、存外武骨な侍たちはそれらを全面的に支持したわけでなく、心ある武人は寧ろ古朴なる鉄鐔を好み、また武人たちも実戦用鐔をそれぞれ独自の感性で工作していた過程があったわけである。武蔵や連也斎、そして金家も兵法家としての立場から鐔造りをなし、それらは武人鐔としての一つの世界を構築したのだといえるであろう。しかしだとすると当時現れた天才鐔師として、金家と並び称される「信家」があるが、この作者も実は京の金工名家から出た者ではなく、やはりその本質は武人であり、兵法家からでた二足草鞋の鐔師だったのではなかろうか? 当時の武術の系脈から金工文化との関わりを調査してゆく過程において、ふと信家の本質をそのように直感したのである。思いつきといってしまえばその通りであり、研究者(そして武術家として)の何とも胡乱な勘に過ぎないのだが、全くあり得ないとも言われない。信家鐔とは御存じ通り、金家鐔以上に古朴な鉄鐔であり、殆ど象嵌らしい象嵌がなされることはない。その意味では冶金技術は別として鐔造りのプロの技術を継承するものではなく、余技で自得した技術ではないかとも感じられるのである。 名人鐔師「信家」の出自を思いつきで想像してみたが、残念ながら信家は金家以上に実物の鐔以外の資料は皆無でありその正体は全く不詳である。ただ一ついえることは信家と金家はその鉄味と武用黒鐔と云うことではかなりの共通点があり、年代も重なることを考えると両者はかなり近しい関係の様にも思えるのである。殆ど同時期に活躍した天下に名高い武用鐔の両巨頭、彼らは何処かで人脈的にも交差し、冶金技術の秘法を共有していたのかも……? その様な思いで金家やその技術的源脈と想定出来る美作宮本家の系脈、その周辺の人脈を探ってゆく過程において真に面妖にして不可思議な一人の兵法家が浮かび上がってきた。始めてその存在を知ったのは無二斎の孫弟子が慶長年間に発行した『無双流二刀秘伝巻』と云う二刀剣法図説資料をみた時である。宮本無二斎を元祖におく流儀であり、そこに二刀剣法の高度な技術が多数描かれており、驚かされたのである。そしてこれこそが武蔵が二刀剣法の発明者では決してなく、二刀遣いは宮本無二斎を祖とする技術伝であることを証する文献として、筆者は鬼の首を獲った様な気になり、何度かその様な論調の論文を大分書いてきた記憶がある。 それはそれとしてその伝書を発行した人脈を検証するうち、かなり不思議な感を受けたのである。流儀の伝脈は宮本無二之助一真から和介田卜斎となっている。宮本無二之助は宮本無二斎と同一人であり、和介田卜斎は無二斎の高弟であり、宮本武蔵や青木金家とは兄弟弟子となる。そして上州あたりで活躍したと見られる師範である。 そして次に伝を受けたのがこの伝書の発行者である荒木無人斎であった。この秘伝書にて始めて現れた兵法家であるが、この名前をみて筆者はかなり驚いたのである。上州辺りで活躍した荒木無人斎といえば現存する荒木流捕手術の元祖である荒木無人斎と全く同姓同號の名称ではないか! そして秘伝書を発行した無人斎の諱が「信家」であるとすると(!)鐔研究者の方々はどう果たして思われるだろうか? [続]
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