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宮本無二斎の十手術の秘密

東西剣法史綺譚
東西剣法史を俯瞰すると中世の末期において大変不思議な技術の共振が起こったと言う驚愕の事実に突き当たる。
それは十六世紀中頃、地上の西と東の洋の果てにて本当に酷似した妖しい剣法が殆ど同時期に出現したと言う何とも奇怪なる事実のことなのである。何千キロも離れた遠方地においてミラーに映した如くに独特の剣法がそれぞれ生まれた事は正に東西剣法史綺譚ではあり、そこには単なる偶然を超えた細い糸の繋がりが何かしらあったのではなかろうか。資料を尽くしてそれぞれの真実を明らめ、両者の関係を考証してゆこう。
先ずは東の果て、極東の孤島、日本國の片田舎で突如出現したある特異なる剣法の話である……。


戦国末期、美作の兵法古家にて驚異の剣法秘伝が編まれていた。それは他系の剣法流儀では決してみることの出来ない真に奇抜な剣法ではあったが、その剣法が秘めたる恐るべき戦闘力は軍家上覧御前試合にて名門武芸者に勝利し、天下無双の称号を賜ったことでも証明される。そして江戸期に入り、その兵法古家から一人の超人的武芸者が出現した。生涯を通じて諸国を流浪し、各地の強豪を撃破し、六十余度もの勝負にことごとく勝利したという天才剣士、宮本武蔵その人である。武蔵自身も特異な二刀剣法を使う、確かに不思議な剣客であったが、その兵法の原泉となった武蔵の父、宮本無二斎の兵法こそはより一層特殊な武芸であり、今回議題にしている極東に突如現れた驚異の秘伝剣法そのものなのである。その本質を解説して行こう。

「吉川武蔵」
吉川英治は『宮本武蔵』にて武蔵自身に自己の剣術の学びを次のように語らせている。
「幼少の時、父について十手術を習いました。それ以降は、村に来る兵法者について、誰彼となく道を問い、十七歳にして、郷里を出、十八、十九,二十の三カ年は故あって学問のみ心をゆだね、去年一年は独り山に籠って、樹木や山霊を師として勉強いたしました。……」
このような武蔵の修行ルーツの説明は武蔵の伝記としてもっとも古い「小倉碑文」の次のような記述を典拠にしていると考えられるのである。
「父新免無二と号し、十手の家為り。武蔵家業を受け、朝鑽暮研、思惟考索云々……(後略)」
つまり武蔵の父、宮本無二斎(異名が多いがややこしいのでこの名で通す)は十手術の達人であり、武蔵は幼少の頃それを学んだが、その上に自己の鍛練、修行を積み重ねて独学にて自己の兵法を形成していった……と吉川氏は考えたわけである。碑文に「二刀兵法元祖也」とあり、また『五輪書』において「我に師匠なし」と述べているわけであるから、武蔵の剣技は独学修行にて自得したものと解釈されるのはある意味では無理はないのかも知れない。

十手捕方
実際武蔵研究の立場からも長く武蔵の父、無二斎は十手術の遣い手として捉えられてきた。しかしここで一つ見落としてはならない事がある。確かに古文献には「十手」と言う言葉が使われているが、無二斎は戦国末期に生きた兵法者である事に注意しなければならない。ところが現在の我々が時代劇などで見聞し、認識する所の、捕物に使われる一般的な十手は江戸の寛永期位以降に一般化したものと言われている。つまり戦国期には類似のものはなく、「十手」と言う言葉の意味合いそのものが後代とは違っていると考えねばならず、そして実際の所、武術としての本質は全く異質であったのである。
考えてみればこれは当たり前の事である。無二斎は将軍家から天下無双の称号を賜るほどの兵法家であり、武芸者の表芸であるはずの剣が使えないはずがない。ただ無二斎の伝えた剣術は本当に独特にして奇抜な技法伝であり、故にこそ「十手の家たり」と言うような表現がなされたのである。その言葉の本質については筆者が平成の始め頃から『秘伝』誌や他の研究書籍を通じて無二斎周辺の秘伝書類を駆使して考証してきた所であり、その考証が現在一般にもかなり浸透、認識され、大体は定説化されてきたことは結構な事である。
結論的に述べると無二斎兵法の内容は[一刀剣法・二刀剣法・十手剣術・小太刀・小具足・捕手・縄・手裏剣]などであったと言う事である。その伝えた兵法の中で「十手剣術」は極めて特殊な武術であり、無二斎兵法を正に象徴する武術であり、故にこそ「十手の家」とも言われ、「十手二刀の達人なり」と言う風にも表現されてきたわけである。

十手二刀術
無二斎の伝えたと言う十手の技とは「十手」と言う特殊な小型の秘武器を左手に持ち、右手に大刀を持って戦う独特の十手二刀術とも言える奇想天外な武術なのである。
その特殊な秘武器の正体は長く不明であったが、無二斎の門人である水田無右衛門と青木鉄人がそれぞれに発行した絵図入りの秘伝書が発見され、大体の形状を窺う事ができるようになってきた。秘伝書の中に実際に使う十手の図が描かれ、また鉄人流の流れの中では十手を用いる技法図があり、そして十手の設計図と共に使った本物の十手までが付随して現存しているのであるからほぼ完璧である。
それは七寸ほどの鉄棒二本を使い、それぞれの真ん中を軸で留め、両方に臍穴を開けて鉄の楔を差し込む事で十字に固定する造りである。そして一本には鉤、一本の片側には槍穂を付けた独特の構造となっており、他系の武術では全くみることの出来ない本当に異様な秘武器なのである。武器そのものも異様であるが、十手と刀を両方持って戦う剣法など他流では全くみたことも聞いた事もないではないか。武蔵は宮本家兵法の二刀剣法と十手剣術の両方を修め、十手剣術の十手の部分を小刀に替えて、大小刀を用いる完全な二刀剣法に大変革し自己の兵法を完成させたと考えられるのである。しかしながらこのようなものがどうして片田舎の兵法古家に突如出現したのだろうか? 日本の武術には中華の武術が大きな影響を与えたとも言われるが、中華系の双刀術も双剣術も基本的に両手に同じ得物を持って戦うのであり、大小刀を並び用いる日本の二刀剣法とは異質であり、ましてや宮本家の「十手」のような特殊な秘武器をみることは出来ない。
日本剣術史の中でも無二斎剣法は突然変異とも言える極めて特殊な武術であり、他系流儀に類例をみない。いやそれどころか日本国内はおろか周辺諸国、朝鮮や琉球、中華国などの武術の中にも決してみられない真に独特なる奇抜な剣術なのではなかろうか。しかし近隣にはなくとも逆に西の最果ての地にこそ宮本家十手二刀剣法と酷似した武術が殆ど同時期に存在していたとすればどうであろう。
……それでは次にいよいよ西に出現した特殊な剣法について解説してゆこう。

西の最果て
西の最果て、つまり西洋にも勿論古来より剣術は存在したが、西洋剣術と言えばフェイシングに代表される所の細身の直剣を片手で用いるスタイルが先ずは思い浮かぶだろう。これでは無二斎の十手二刀術とは大分趣が違うし一般的な二刀剣法とも異質である。近代軍隊ではサーベルのようなものも遣っているが、これも到底似ているとは思われない。
しかしながら実を言えばある時期の西洋剣法は二刀遣いが流行していた。その片鱗を当時の英国文学の最高峰、天才劇作家、シェークスピアの名作、『ハムレット』の中に窺う事が出来る。『ハムレット』の初演は1601年と言われるが、その中の次のような下りがあるのである。

オズリッリ いえ、つまり、剣術の腕のことでございまして、召使たちの評判ではたしかに天下無敵だとか。
ハムレット 剣は何を使う?
オズリック 細身と短剣でございます。
ハムレット 両刀使いか――まあ、よかろう。……(後略)

つまり当時の西洋ではかなり二刀剣法がある程度一般的であったと言う事である。しかし年代の驚くべき一致をみていただきたい。無二斎直筆の伝書が幾点か残っているが、慶長二年位から慶長十三年、つまり1597〜1607年の発行であり、シェークスピアのハムレットの執筆、上演期とほぼ一致しているのである。西と東の殆ど同時期に二刀剣法が出現した事は真に不思議である。しかも実は単に二刀剣法と言う点が一致したと言うだけではないのである。
ハムレットは文豪シェークスピアの傑作として近代では何度か映画化されているので御覧になられた方も多いであろう。映画におけるハムレットと対手(レヤーティズ)との戦いをみると本当に驚かされる。実際に二刀剣法同士で戦うのであるが、表現される二刀剣法は中華式の同じ刀剣を用いる形態とは全く違い、左手はかなり短い短剣、右手に長剣を持って両方の性質を巧みに操って戦う独特の戦闘法なのである。これは正しく大小刀を用いる日本の宮本家に古伝した独特の両刀剣術にかなり近似した剣法と言えるだろう。いやそれだけであるならば筆者もかくした一致を特別の奇跡のように解説しようとは思わなかったかも知れない。
実を言えばいま一つの驚愕の事実は左手の短剣の本質の中にあるのである。

マンゴシュ
歴史的にみると西洋でハムレットに表現されるような二刀剣法の形態は大体十六世紀代から出現し、一般的になっていったと言われる。日本の美作宮本家で両刀剣術が工夫され、錬磨されてきた年代と見事に重なるわけである。しかし問題は西洋二刀剣法で用いる短剣であるが、その形状は日本の脇差に比べるとかなり短めであり、そして驚くべき事には鍔は横左右にかなり飛び出た形のものが多く、全体的にみるとクロス型と言えるものである。このスタイルは無二斎十手の形状にかなり近似してはいないだろうか。そして名称としてフランスなどではこの防御用の短剣をマンゴシュと呼ぶのであるが、もしこれに漢字を当てはめるならば正に「萬護手」であり、何故かかなり日本的な名称である。
この左手の短剣は種類的には幾つかのパターンが考案されたが刃にギザギザをつけ、敵の剣を挟んで固定、もしくは破壊してしまう「ソードブレイカー」と言う形態のものも工夫された。この点も鉤を付け、敵の刀を挟んで固定して戦ったとみられる無二斎十手の術理との驚くべき一致を見せている。

細い糸
地球上における最遠方の二地帯、その同時期に、殆ど同じ形態の剣法が出現し、その内蔵する術理も殆ど同じであると言う事。これは真に驚愕の事実であると共に果たしてこんな偶然が有り得ることなのかと思う。
日本の大小刀の両刀剣術と言うものに限って考えるならばそれは両刀を束さむ日本武士の発想としてとしてそれほど不自然ではなく、実際宮本家以外でも奥伝技術として多くの流儀が二刀剣を伝えている。しかし何よりも特異なのは無二斎十手であり、このような形状は日本武術として正に空前にして絶後である。その奇抜にして異様な形態とその発想が西洋二刀剣法における防御用短剣マンゴシュと酷似していると言う事実をどう解釈すればよいのだろうか。
その謎を解くためには地球の表裏なる両地は丁度この時期に限ってのみ行き来して文化交流をなしていたと言う紛れもない事実を捉える必要があると思うのである。当時の西洋では海洋技術が発達し十六世紀の中頃、遂に日本沿岸までに達し、西洋の文物の多数を日本に将来することになる。当時の日本には既に極めて優れた武術文化と日本刀に代表される所の驚異の武用刀剣が存在したから刀剣技術にそれほど大きな影響を与えたとは考えにくいが西洋で発達した科学機器文化がかなり流入したことは事実である。時計や鉄砲の伝来は正にこの時期であり、日本の工業技術の発達を促したが当時来日した西洋人(南蛮人、紅毛人)は当然の事ながら同時期における西洋製刀剣を帯びていただろう。西洋二刀剣法の遣い手は長剣と共にマンゴシュを腰に吊り下げていたに違いない。それをみた日本武人の一部は日本刀剣とは異質のその大層珍しいスタイルに瞠目したに違いない。宮本無二斎は美作にて様々な流儀の学びを経て自己の兵法を醸成しつつあったが、伝説通りであるとするならば都に出て御前試合をこなしている。そのおりに西洋人との接触があり、携える西洋刀剣、特に短剣マンゴシュを見聞、もしくは入手している可能性は十二分にあるのではなかろうか。
ただ現在ではかくした西洋短剣の遺品が宮本家に現存しているわけではなく、そのような伝来口伝承が残っているわけでもない。無二斎が良くした十手剣術を武蔵は払拭して二刀剣法の中に組み込んでしまったし、無二斎兵法は純粋な形で後世に継承されることはなかった。ただ唯一の例外として門人、青木鉄人が再編成した鉄人実手流の中に無二斎伝の十手剣術が面影を止めている。ところがその鉄人実手流も鍋島では細々と伝流したが、現世まで伝を繋ぐ事は残念ながら出来なかった。
西洋においては鉄砲文化が発達し、両手を用いる両刀剣術はたちまち廃れ、片手遣いの一刀剣法に集約されて現在にいたっている。
東西で突如現れて彗星の如くたちまちしぼんで消えた十手剣術の本質を知るものは今では誰もいない。僅かな遺品と秘伝書類にその面影と東西文化交流の痕跡を追うのみである。
[終]

 

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