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怪人宮本武蔵の真実
リード
 宮本武蔵−−それは日本剣術史上、最高に著名なる剣豪中の剣豪の御名であるが、その本質を知っているものは誰もいない。自称研究者の数は最高であり、解説書も無数であるが、殆ど全てが誤謬と曲解、独断と偏見著述の孫引き書であり、その曲解文書が真実を雲霧の如く被い、逆にその驚くべき実体を暈してしまっているとも言えるのである。その大きな原因は武術家としての武蔵を捉えるのに武術研究者以外の似而非文化人たちが本質的な武蔵武術の研究を無視した立場にて独善的かつ独断的著述を繰り返して来たからであると言えるのである。
 これからの武蔵の研究著述には先行研究の解析は程々に置き、何よりも武芸者武蔵としての方向から、武術に於ける第一次文献を捉えた純粋な学術研究と文書解析が必要だと正直に思うのである。
 その様な立場から今回武蔵の秘密を探究して行く事とするが、先ずは出自に於ける基本的な二つの謎の部分を分析して行こう。

●武蔵の生年の秘密
 天正十年説、天正十二年説、天正元年説などがあるが、最も直截的な資料は勿論五輪書の序文である「われ歳積もって六十……」と寛永二十年に書いているので逆算し、数えで計算すると天十二年、満で計算すると天正十〜十一年と云う事になる。五輪書の序文は武蔵の自著ではないとの説があり、それは確かにかなり正しい論であるが、内容まで完全に出鱈目と言うわけではない。それは自叙伝の年代が歴史的事実と合致する部分が何箇所かある点からも考察出来るのである。注目点は「(殺人剣を振るって来たのは)……その程十三より二十八九迄の事也……」と述べている最後の年が時期が巌流島の決闘の時期(慶長十七年)と合致している事であり、この様な点を鑑みて年代的にもかなりの正さを含む著述と考えてよいのではないかと思う。
 天正十年説を支持する文献があるが、後代資料であり、かなり年号の書入れが杜撰な資料とみる事が出来るので確定は出来ない。天正元年説は父母の没年からの推定説であるが、父母の没年記述が正しいと言う確証なく、巌流島決闘との年代が合わなくなると言う矛盾がある。

●武蔵の生国の秘密
 作州説と播州説がある事は御存知の通り。これは武蔵の実父母の謎と重なった問題であり、実父が作州の平田無二斉であるなら作州生まれ。播州の田原某であるなら播州生まれとなる。双方、それぞれを主張する系図が現存している訳であるが、両者の内容が完全に矛盾しているので何方か(若しくは双方)が偽書であると考えるしかない。その監査は難しい部分があるのであるが、問題は双方後代の資料であり、父母の年代記載が杜撰である点である。なにせ双方武蔵の生年より前に没している事になっているのであるから随分いい加減である。この様な場合周辺資料から妥当な所を監査すべきであるが、両説をそれぞれ支持する文献があり、これもかなり判定は難しいのである。
 今の時点ではそれぞれ支持文献を挙げておくこととしよう。

●作州、平田無二斉実父説
@平田家系図
 作州生誕説の根本文献。しかし実父の没年と武蔵の生年に矛盾がある。これを解釈すれば単純に後代の文献として年代記述が杜撰になったと考えるしかない。なお武蔵の名前が政名となっているので偽書と言う論があるが、後代文献で諱が杜撰なのは有りがちであり、決めつける事は出来ないと思う。
A小倉碑文
 これは宮本伊織の撰文であるがこの中に「十三才にて初めて播州に到る」との著述があり(つまりそれまでは作州にいたと云う事になる)、この一文が作州生誕説の有力な論拠となっている。
B円明実手流家譜并嗣系
 この資料は武蔵の門弟と言われる青木鉄人の著述であり、武蔵の出自に於ける解説がある。その中に武蔵を養父、無二之助の猶子としており、猶子とは養子と云う意味に加え兄弟の子と云う意味がある、また根源的意味は「なおわが子の如し」と云う意味で「近親の子供(甥、姪など)」と云う意味も含まれると考えられるので義父である宮本無二之助の兄弟(近親)と言う事になると実父は同じ作州の平田無二斉(※)の可能性が高く、よって作州説を支持している事になる。

※ 宮本無二之助の妻は平田無二齋の妹であり、両者の関係は義兄弟である。また双方の妻の同一人説があり、それにも微妙な解釈があるが、ややこしくなるので今回は触れない。

 次に播州説の支持文献を上げる。
●播州生誕説
@田原系図
 播州生誕説の根本文献であるが、実父母の没年と武蔵の生年に矛盾がある事は平田文献と同じ問題がある(平田文献では実父の没年のみ問題)。
A五輪書序文
 これには武蔵自身が「生国播磨の武士……」と自己申告しており、播州説の有力な論拠となっている。
Bその他文献に於ける生国播州の武士著述
 小倉碑文や円明実手流家譜などの著述にも生国播州との著述があり、これらも播州説の支持文献とされるが、これは単に武蔵の申告をその儘写した記述であると考える事が出来るから根源的資料は五輪書のみと考えても良いかも知れない。

 文献を監査しても両説の何方が妥当かと言う事は難しい問題であり、何事も断定すべきではないであろう。
 特に近年播州説こそ真説であると称える研究者も多いけれども確定証拠は何もないのである。前述した通り田原系図文献も年代記載が胡乱であるし(武蔵の生年のみならず兄その他の生年もあり得ない数字である)、武蔵の「生国播州の武士……」と云う自己申告といえど多少の胡乱な部分があっても不思議ではないのである(ある意味では自己申告ほど信用できないものはないと言う捉え方も出来る)。
 ともかく武蔵と言う希代の剣客は後に作州の宮本無二之助を養父として家伝武術を学び、青年期近くまで作州、播州に跨がって修行し活躍した剣術家である事は事実である。

養父
 実父は多説あるが(平田某、田原某以外にも幾つかある)、武蔵の養父にして武蔵の武術の師匠については比較的良質の資料からほぼ確定されている。それは戦国武芸者、宮本無二之助一真である。宮本無二之助は戦国末期から江戸最初期に掛けて活躍し、当理流を名乗った兵法家であり当時、彼が発行した武術伝書が数点残っている。
 また無二之助の門弟、武蔵を筆頭に水田無右衛門、和介田卜斉、青木鉄人の伝書、卜斉の門人、荒木無人斉の伝書など周辺資料も豊富であり、宮本家武術の本質をかなりの部分で伺う事が出来るのである。

宮本家武術
 武術伝書といっても宮本無二之助伝書は形名が中心であり、それのみでは実際の技術内容を監査する事は困難である。しかしながら無二之助以降には豪華な彩色絵目録にて実際技術を図説した青木鉄人や、当理流で用いられる十手を図説した水田無右衛門、無二之助の伝承した二刀剣術の技術をトンボ絵で図説した荒木無人斉信家がおり、また武蔵自身も青年期に円明一流を唱え、兵道鏡と言う技術解説伝書を残している。それらの伝書を監査、比較をなせば宮本家の武術の本質をかなりの部分で伺う事が出来るのである。以下資料からその実質的な内容を探究して行こう。

十手剣術・二刀剣術
 宮本家の武術を俗に十手術と言うが、江戸期に於ける十手術と同列の技術ではない事に注意しなければならない。だいたい宮本家当理流十手術と云う謂を額面通り引用する研究者が多いが十手術は総合武術体系の中の一端として伝承される事が殆どであり、十手術のみを伝承する家、それも戦国期に於てその様な実態がある訳がないのである(※1)。
 宮本家々伝兵法の技術内容は(一刀剣も伝承しているが)二刀剣術が中心であり、その中に(つまり二刀剣術の変形として)右手に大刀を、左手に特殊な十手を持って戦う技術があったと云う事なのである。後者の技術は現存古流では殆どみる事は出来ないが十手剣術とも言える大変に珍しい技法であった。
 その他竹内流系と思われる体術を伝承していた事も資料に現れており、また手裏剣術も行われていた事が資料に見える。当時の周辺資料から考察すると当理流の内容は〔一刀剣・二刀剣術・十手剣術・捕手・腰之廻・縄・手裏剣〕などである。十手を用いない剣術として一刀剣・二刀剣を伝承していたが、二刀剣術が中心であると観察される(※2)。これが正に武蔵兵法の原点となった実技であると言えるだろう。
 当時の伝書、また後代の伝書監査から考察すると、この様な特殊な体系の武術、二刀剣術を編み出し(※3)、十手二刀剣術流儀、当理流を大成したのは宮本無二之助である。無二之助は武蔵を含めた多くの達人を育てた大変な天才武芸者であった。

※1 江戸期に於いては十手専門流儀も少数ながら存在したと考えられる。それでも単一技術を伝承すると云う形態が生じたのは幕末期であろう。またそれらは他の術技の流儀と平行して伝承されたであろう。現代に伝承する一角流・柳生流などは十手単独継承流儀であるが、しかしそれらにも江戸期にはかなり周辺の武器術が付属していた様である。
※2 水田無右衛門伝書及び無二之助伝書の比較分析から当理流に新当流系の一刀剣が伝承していた事が推定できる。この一刀剣は宮本家兵法の基礎となったものであり、そこから大成された二刀剣術こそが宮本家両刀剣術の本体であったと思われる。
※3 日本剣術史上に於て初めて二刀剣術の技術を発明したのは誰かと言う点は難しい部分があり、根源的な沿革はいますこし古いであろうと考察する事ができる。しかし大小をたばさみだした時代背景から考察するとそれほど以前には溯る事は出来ないであろう。また現存の当時の武術伝書では宮本無二之助が元祖となっており実際二刀は無二之助の工夫とする文献もある。ともかく二刀流を中核においた武術流儀を大成したのは無二之助である。

当理流十手の本質
 無二之助が用いた特殊な十手の本質をいますこし考えてみよう。当理流の十手は江戸期の同心の持っていた十手とは形態が大きく違っていたと考えられるが、実の所無二之助時代の実物資料はなく、無二之助伝書にも実手と有るばかりでその形態の詳細は分からない。しかし次代の青木鉄人と水田無右衛門は二人ともその特殊な十手の形態を伝書に絵で書き残しており、両伝書に於ける絵図の共通点から当理流の大体の形態を想定する事ができる。それは鉄の十手に槍穂金具が十字に付いた様な特異な形態である。二人の門弟、その二系派の伝書で同様の形態図が掲載されているのであるから当然の事ながら当理流十手も間違いなく同様の形態のものであったのであろう(これは数学の世界でよく用いられる演繹法の応用的考察である)。
 しかし青木系と水田系の図は殆どそっくりであるが、一点違う所がある。それは青木系実手には十手と槍穂を十字に組んだあと、それを止める金具が付いている事である。つまり三つの部品で成り立っているおり、それと水田系十手は殆ど同じ形態であるが、十字に止める金具が図に描かれておらず、基本的には二つの部品で成り立っていると云う事である。
 つまり二つの形態の実手がある訳であるが、この点は現存資料からも考証する事が出来る。なんとならば鉄人系の三つ部品型と水田系の二つ部品型の二種の骨董品が確かに現存しているからである。この何方の形態が当理流実手に近似しているのかは確定は出来ないが機械と云うものが単純から複雑に進化して行くと言う認識から判断すると当理流実手は二つ部品型であり、それを青木鉄人が三つ部品型に改良したと観察する事が出来るのである。
 後代に置いては『マロホシ』と言う名称でいま一折りできる高度な機構の実手が発明されており、伝書資料と実物が現存している(※)。これは福岡で伝承した鉄人実手流から、神道夢想流の流れの中で伝承した一角流手棒術の流れの中で工夫されたものであると考察する事が出来る。

※ この様な改良と変化は、丁度普通のコウモリ傘が二段折れ傘となり、また三段伸ばし傘が発明されて行った過程に似ていると云う事が出来る。

当理流から円明一流へ
 宮本無二之助の様な天才兵法者に育てられた武蔵も又天才であり、若くして大変な実力を身につけ、やがて武者修行の旅に出、諸国を流浪し、多くの他流試合をこなして各地の強豪を下して宮本家々伝武術と剣豪武蔵の名を諸国に轟かせて行くこととなるのである。
 しかしながら武蔵の実力と名声はともかくとして伝承した内容、青年期の武蔵兵法の本質は無二之助が伝承した当理流と同質である事が伝書類資料その他から判明している。ただ流名は青年期は円明一流と名乗っているのであるけれども。

伝説の誤謬
 当理流から円明一流への流れを解説したが、ここで武蔵伝説における誤謬を正しておこう。武蔵伝説の最大の誤謬、それは武蔵は養父の十手術を修行し、そして剣術を自得し、そしてまた厳しい武者修行の果てに遂に二刀剣術を開眼し、絶後の流儀、二刀剣術流儀二天一流を編み出したなどと言う出鱈目な伝説である。これは全くの誤りであり、前述した通り武蔵の養父の武術の本質は二刀剣術及び十手剣術である(新当流系一刀剣術も伝承していた事は前述した通り)。
 勿論武蔵の青年期の剣術も流名を違えると言うものの内容は同質であり、当時の技術は二刀剣術及び十手剣術である(当時武蔵が一刀剣も伝承したかどうかは資料なく不詳である)。

円明一流から二天一流まで
 青年期の円明一流から晩年に於ける二天一流までの流れは武蔵の生涯そのものであり、四十年の歳月を経ているのである。宮本家の家伝と同質の円明一流を長い修行の果てに二天一流と言う形に纏めたのは晩年の事であり、また最後には五輪書と言う大変に優れた剣術テキストを残しているのである。
 この点も含めて武蔵が家伝、当理流武術を基として長い研究の果てに高度にして優れた理論に裏付けされた二刀流剣術を編み出したと言う論もあるのであるがこの様な認識は正しいのであろうか。次にこの点を考えてみよう。

二天一流の本質
 結論を先に述べるならば、二刀剣術の技法と言う立場から言えばこれは全く正しくない。逆に当理流の技術、若しくは体系の方が二天一流よりも遙かに優れた部分があるとも言えるのである。
 理論付けと云う事に関しては武蔵が兵道鏡や兵法三十五ヶ條・五方之太刀之序・五輪書などの剣術理論テキストを残した事は事実であるが、一方それらの原典になった様な当理流に於ける教傳がどの程度あったのかは実は良く分っていない。当理流兵法理論書・口伝書・手継書などが完存していない状況、そして今の研究段階に於てはそれは不詳……と言うほかはないであろう。
 しかし少なくとも二刀剣術に於ける当理流の技術は極めてレベルの高いものを保有していたらしい事が伝書類資料の監査によって明らかである。これは武蔵が生涯を通じて伝承した形と技法、青年期、中年期、晩年期の二刀技法を調査、復元、実際稽古を行って来た筆者の立場として当理流の技術は大体把握する事が出来ると云う自信があるのである。当理流は初伝の基礎技法から中伝の実戦技、奥伝における極意技術、秘伝の部分に恐るべき秘剣、必殺剣法を保有する真に優れた体系であったと思う。

極意技術
 しかしながら武蔵が最終的に制定した二天一流は伝統的な宮本家々伝の技法を崩し、また体系的な流儀武術と云う伝統文化を超越したところの非常に斬新なるニューウェーブの新制文化であった。当時に於ける他の流儀武術とはかなり異質な存在であり、実際家伝の二刀剣術の基礎技法は捨ててしまい、奥伝極意技法のみを象徴的に表現する五方之太刀のみを残した奇矯かつ大変に妖しい文化なのである。
 勿論五方之太刀は宮本家武術の極意技法を集めて構成されているが、しかし技法の流れと言う立場に立った時、最後の極めの部分を暈し、暗示的に表現した部分があるので全体の流れを見ても形の意味が何ともわかりづらい部分があるのである。
 しかもそうした極意技法の部分は武蔵が工夫した部分もあるとは思われるが、しかしその基調となる技術は既に当理流、円明一流の時代から存在した技術なのである。例えば武蔵が二十二歳位に発行した伝書に、晩年期の二天一流の極意中の極意とも言える『中段之構』の技法極意傳が『前八』と言う口伝を含めて目録の中に記載されている事からも推定することができるのである。

武蔵兵法の極意『中段之構』
 武蔵が晩年の五輪書に於いて「大将の座也」とした中段の構、これには非常に高度な氣の剣法としての理合いと口伝が現存しているが、これは決して武蔵が晩年に至って初めて編み出した極意技術ではない。宮本家伝兵法の極意そのものなのである。形の上では単に両刀を前に翳した単純な構えであるが、深遠の術理、氣の運用により、その姿のまま自己の回りに氣のバリアーを張り、敵の氣を抑え、躰を制する事が出来るのである。その根源的な口伝として『前八』と云う言葉が青年期の円明流伝書に見えている以上、それだけの高度な術理が当時として既に存在したと見るべきなのである。

武蔵の修業過程
 しかしながら恐らく義父直伝のそうした高度な技術が既に青年期の武蔵伝書に現れていたとしても勿論当時の武蔵が自在にそれらの極意技術を百パーセント有効に駆使出来ていたと云う訳でもないであろう。古流武術の目録、階梯と云うものは一生を掛けて会得して行く道の筈であり、武蔵は宮本家兵法の継承者として若くして家伝兵法の全伝を残らず伝授されていたであろうけれども武蔵が形に秘められているその極意を自家薬籠中の物とするに至るのは以降、長年に渡る修業と武者修業の果てであったと想定する事が出来るのである。

武蔵の本質
 以上考察して来た様に武蔵と云う剣客は決して二刀剣術の発明者でも大成者でもない。他の宮本家が輩出した多くの天才、逸材たちを並列に並べる立場に立てば、(家系の問題を別として)二刀剣術の名門、宮本家武術の門人の中の一個の練達者であるに過ぎないのである。確かに傑出した天才であり、また実戦の雄ではあったが、宮本家古傳兵法の良き後継者と云う訳では決してなかった。
 青年期はともかくとして、晩年期には古典を捨ててニュースタイルの前衛武術に改変した事は前述した通りである。故に純粋な二刀剣術技法、また武術と云う立場から言えば武蔵晩年の兵法には何とも物足りない部分がある事は事実である。

宮本家両刀剣術遣いの前衛武術家
 より端的に評価を下すならば武蔵は多くの宮本家武術一族の中に於ける一個の前衛武術家であったといえるだろう。
 寧ろ無二之助の伝承した宮本家兵法、両刀剣術・実手術・躰術等の高度な技術、システム化された教傳体系、また形名などの古傳文化は武蔵以外の無二之助の門人たちよって継承されて行ったのである。
 良く二刀流は武蔵の一代限りであったなどどでたらめな著述をなす者がいるが、これは全く事実に反している。武蔵兵法の伝系は尾張や、江戸、肥前、肥後、その他全国に大いに継承されて行った事は勿論であり、宮本無二之助を元祖とする二刀剣術の伝系からも本当に多く俊才、逸材が輩出し江戸期を通じて高度な両刀剣術の技術が全国各地で隆盛したのである。鉄人実手流の青木鉄人、十手を図説した水田無右衛門や無双流を称えた和介田卜齋、荒木無人齋、心形刀流の伊庭是水軒、柳剛流の岡田総右衛門など多くの俊才、天才たちが二刀剣術の一大文化を形成したのである(伝系図参照)。
 文化的業績に於いても青木鉄人は無二之助の当理流の古典をかなり部分でその儘継承したし、また多くの極彩色の技法図説伝書を始めたとした口伝書その他を残している。
 心形刀流や柳剛流にても古傳の二刀剣技法は継承され、また宮本家の躰術は無双流や荒木流、無双直伝和と云う形で同質の部分が継承されていると言えるのである。

宮本家両刀剣術の伝搬
 それでは宮本無二之助を元祖とする二刀剣術の伝系から出た各天才達の業績を順次みて行こう。
@鉄人実手流の開祖、青木鉄人金家
 無二之助及び武蔵に就いて宮本家十手二刀剣術を修め、鉄人実手流を開いた青木鉄人金家は流名を違えながらも内容的には古傳に近い形の二刀剣術と実手剣術を継承し、多くの豪華な絵目録を残した事で知られている。また金工にも優れ絵風鍔と云う独特の鍔を造り鍔造りの名人として著名である(※)。武蔵自身も墨跡・絵画・木工・金工などに優れ、ナマコ鍔として独特の鍔などを自作しているが、鍔造りに限って言えば素人芸の域を出るものではないと言えるだろう。また技法絵図は残さなかった様である。武蔵直筆の二天一流(もしくは円明流)絵目録などが出たら正に国宝なのであるが、大和絵は苦手であったのだろうか? この点上泉伊勢守の時代から優れた絵目録群を発行していた新陰流文化に及ばぬ部分があるが、しかし逆に鉄人は新陰流以上に優れたものを残しているのである。
 青木家は一族として鍔工、兵法を家職として継承して行った家であり、叔父に当たる青木休心齋も『実手流兵道鏡』などのレベルの高い技法解説書を残している。また幻とも言える当理流実手の真姿を図説し、後代資料ではあるが、実手の実物、そして分解詳細図まで鉄人の系流の中で現存しているである。
 鉄人実手流は肥前などで大きな隆盛をみ、牟田文四郎高惇などの全国武者修業などで名を馳せた達人を多く生んでいる。

※絵風鍔を創始した名鍔師、伏見住金家と兵法家にして鍔師、青木鉄人金家(やはり伏見在住)は同一人物であると思われるが、事実関係には不詳な点多く異説もある。この点に関して詳細な研究と考証をなし、その研究成果を総て公開した労作『大金家考』を著作された上森岱乗先生がある。

A無双流二刀剣・和術を伝承した和介田卜齋
 無二之助の門人、和介田卜齋は無双流を称えて宮本家兵法を継承したが、その内容は無二之助伝書と比較すると無二之助兵法の古典を最も墨守したものである事が分かる。特に宮本家の和術までを継承しているが、内容は竹内流の小具足・捕手体系のスタイルを踏襲したものである。作州宮本家の和術の源流は竹内流であるとされており、伝書的考察からも和介田卜齋は宮本家の家伝躰術を最も正確に継承した師範であると考えられるのである。

B荒木無人齋信家
 和介田卜齋の無双流を継承したのは荒木無人齋(八右衛門)信家である。彼は和介田傳無双流の二刀剣と和術をかなり正確に継承しており、その系統の内、和術傳は信州に伝承し極近年まで習得者が現存していた。
 また荒木無人齋の門人である森霞之助(※)は上州にて荒木流捕手を大成したが、これは独特の体系を持つ日本捕手の名門中の名門として大きな潮流となっていった。彼が大成した体系は大変に優れていた為か、全く古典を崩さず現代まで継承されている。
 また上州荒木流と信州で隆盛した無双直伝流とは兄弟流儀であり、流儀内容も類似した部分がある。和術と居合、棒術、鎖鎌などを継承していたが、その内居合の傳のみが土佐に流れ現在無双直伝長谷川英信流居合道として現存している。

※無双流系の荒木無人齋信家と上州荒木流、森霞之助の先師である荒木無人齋が同一人物かどうかは残念ながら現時点の研究では完全には確定されていない。

C水田無右衛門
 無二之助の門弟であり宮本家兵法の後継者の一人である。慶長年間に彼が発行した伝書が数点現存しており、その中に当理流伝来の槍身付き十手絵図が描かれている。
 伝書内容はかなり密教色が強い。これは無二之助伝書も密教色が強いのでその意味では当理流を正しく継承した師範であると云う事が出来るであろう。

E伊庭是水軒秀明
 江戸の名流、心形刀流を開いた伊庭是水軒と宮本家武術との接点は不詳な部分があるのであるが、流儀の内容は一刀剣と二刀剣であり、そして二刀剣の内容は宮本家々傳二刀剣と同質のものである事が伝書比較により明らかである。これは鉄人実手流の二刀剣の系を引いている事が定説である(詳細な伝授人脈は不詳)。
 心形刀流の二刀剣の技術は詳細な技術解説伝書、絵目録などによって大体窺う事が出来る。

F岡田総右衛門奇良
 心形刀流の門流から柳剛流を開いた岡田総右衛門が出た。柳剛流は多くの他流試合に勝利して実戦剣法として一世を風靡して行くことになる。流儀の内容は一刀剣・二刀剣・小具足・杖・諸刃長刀などであるが、二刀剣は心形刀流の二刀剣の技術をかなり踏襲しておりここの部分に脈々と宮本家兵法の技法が息づいていると言えるであろう。

宮本家両刀剣術の改変
 武蔵系以外の宮本家兵法の流れと、その人脈を概説した。そして武蔵以外の流れ方が古典的宮本家兵法を受け継いでいると云う事を論述した訳である。
 筆者の論証したい事は武蔵が決して無師独学の天才ではなく作州美作の兵法名家、宮本家兵法一門と云う巨大なユリカゴの中で育てられた一兵法家であったと云う事である。
 解説したとおり宮本家兵法の道統は多くの逸材を輩出しており武蔵のみが必ずしも古今独歩と云う訳ではないのである。そして筆者の武蔵に対するいま一つの不満は、武蔵の二刀剣術の極意探究と芸術化は結構であると思うが、ここで養父傳の両刀剣術の古典を捨ててしまったと云う事実があるのである。
 考えて見ればこれは大変に不思議な事実である。武蔵は宮本家の嫡子でもあるにも係わらず何故に宮本家々傳兵法の古典を傳承しなかったのであろうか。この問題を次に考えて行く事にしよう。

武蔵の心中
 それには色々な状況、文証から武蔵の心中を忖度するしか方法がない。それは武蔵が何者であるかと云う考察でもあるのである。
 武蔵−−それは戦国武人の最後の生き残りの一人であり、江戸初期に生きて晩年まで剣の極意を探究した求道的武芸者である。未だ防具試合の醸成していないかくした時代に全国を流浪して各地の強豪と戦い生涯を通じて六十余度の真剣勝負に悉く勝利した豪傑でもある。江戸中期以降に竹刀競技で百勝した千勝したと自慢するのとは訳が違うのであり、対戦相手の生き血をもって自己の愛刀に紅化粧を施した事は数えきれぬ。
 総勢何十人もの剣人を相手に縦横に切りまくり血路を開いた事もある。そのおりには十二歳の童の頭を敵将の御旗として唐竹に割ったとも云う。血に塗られた剣法−−家伝の武術の法外な強さ、実戦性には大いに満足すべきであったかも知れぬが、しかしかく戦歴を経て来た武蔵が単なる剣の技術を越えた所の、より奥にある精神の世界を求道したとしても何ら不思議はないであろう。精神の求道に伴い武蔵の剣は次第に青年期に於ける激しさは影を潜め、たおやかにして丸い枯れたものとなった行っただろう。想像して書くのではない。青年期の円明一流の技術と晩年の残した五方之太刀、またその中間に伝承された技術群を並べ、筆者の武蔵剣術の研究者の立場としてかくした考察を成しているのである。

剣聖
 五輪書の序に「……(真剣勝負を成して来たのは)その程十三より二十八九迄の事也、我三十を越へて跡をおもひ見るに兵法至極してかつにはあらず。自ずから道の器用ありて天理を離れざる故か,又は他流の兵法不足なる所にや。その後なおもふかき道理を得んと朝鍛夕錬してみれば、をのずから兵法の道にあふ事、我五十歳の頃なり……」とある如く、武蔵は巌流島の決闘以降、正に剣の聖の道を歩みはじめたと考えて良いであろう。
 以降も試合を全く成さなかった訳ではないが、望まれてなした御前に於ける木剣試合においても敵を傷つける事なく氣で制する剣法にて敵を下したと言われている。木剣で勝ったから氣で制したなどとギャグを飛ばしているのではない。木剣試合は真剣勝負の部類であり、下手に当たれれば即死も覚悟しなければならぬ危険なものであるが、武蔵は木剣を触れ合わす事もなく敵を制し、位攻めで勝利したと伝えられているのである。
 柳生石舟齋が新陰流の最後の極意として無刀捕りを極めたのと同じく武蔵は敵を氣で制する極意剣法に加え、また敵の刀を叩き落とす紅葉之太刀なる不殺剣法を晩年に伝えたのである。
 それらの極意剣法を纏め、五方之太刀として一つの結実をみたのは正に武蔵の最晩年期である。それは一つの剣法哲学の表現であり、また極意表現形とも言える大変に不思議な、それまでの宮本家兵法にはなかった新文化であった。個々の技法自体は総て独創とは言えないけれども、形名や気合、その他全体の流れにはかなり独特のものが窺えるのである(※)。この様な新制文化を制定した武蔵は間違いなく二刀剣術の極意を極めた達人であり、また偉大な芸術家であった。

※ 現在残る五方之太刀と武蔵の制定の五方之太刀とどの程度違うのかはビデオ比較する訳には行かないので不詳な部分があるかも知れない。大体、現在の五方之太刀と言っても野田派に二系以上、山東派に四系以上の系派があり、それぞれ趣は違っている。しかし全体の流れは五輪書の解説と何とか共通している様である。

武蔵の真姿
 武蔵は宮本家兵法一族の中の一人と云う立場で論述して来たがやはり実戦の雄として武蔵は当時に於ても大きな名声と尊敬を集めていただろう。江戸や尾張、小倉、特に晩年の肥後に於て多くの門人を養成した事も間違い無いのである。宮本家の古傳二刀剣は無双流・心形刀流・鉄人流・時中流・柳剛流・未来知心流といった流れで継承されたが(現存する流儀は心形刀流・柳剛流のみ)、肥後に於ける武蔵の新制二刀剣法、二天一流は肥後に於て非常な隆盛をみて現代までその特異な二刀剣法形、究極芸術『五方之太刀』を伝えている。
 ただその武蔵の究極剣法の真意を理解する為には肥後傳二天一流を見つめるのみでは困難である……と筆者は思う。それには実際、宮本家古傳二刀剣、武蔵の青年期の円明流技術などを深く研究する必要があるのではなかろうか。そしてそれらの総ての総てを探究した時、そこには真に奥深い宮本家両刀剣術に於ける驚愕の術理、剣法理論が確かに浮かび上がって来るのである。何故に若年の武蔵が世の剣豪、大家を悉く下して天下に名を轟かす事が出来たのか。宮本家兵法の法外なる強さの秘密、そしてそこから武蔵が会得した悟り、また研究と工夫、そして改変の秘密などなど……。
 そこには大変に興味深くまた驚嘆すべき部分があるのであるが、それら武蔵兵法の術理解説は次の機会に成したいと思う。

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