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「無双流1 無相流新柔術」

伝書
珍しい無相流柔術の伝書を研究する機会を得た。彩色絵目録であり、中々のレベルの資料である。ただ内容は柔術技法ではなく、活法技術の絵図である。柔術における活法についても非常に興味深いところがあり、今回はこの資料を基に色々思考してみよう。

無相流とは
さて資料の流儀、無相流であるが、後ろの伝系をみてみると中條勝次郎の名前が出てくるので所謂「中条無相流」であることが分かる。そして次代の中条秀次郎は「讃岐國松林田村」と住所書きがあり、讃岐に伝承した流儀であったことのだろう。ところが面白い、いや困ったことに讃岐には今一つ(いや後数種)の無双流があるのである。
そしてこの辺の研究としては小佐野先生の中條家文書に依る研究がある。その先行研究を参考としつつ、新たなこの伝書を探求資料の一つに加え、そこからまた筆者自身の想像を交えた仮説を重ねたいと思うのである。何故にそんな氣になったかと言えばこのムソウ流問題には筆者の探求する巨大な武術流儀と人脈がかなり関わっているのではないかと想定できるからなのである。何処まで探求できるか分からないが少し探ってみよう。

多くのムソウ流
落語みたいな話であるが、日本武術流儀にはムソウ流は本当に多く乱立して存在する流儀名で色々な当て字が當てられる。「無双流・夢想流・無相流・無想流」などに加え、ムソウを流名の一部に入れた流儀として「神道夢想流・無双直伝流・天下無双流」……などなどがある。上げればきりがないので控えるが本当に多くの流儀が「ムソウ流」を名乗っている。これは根源的な処でその源泉とも言える「ムソウ流」が存在したのではないかと言う考え方をとりたい。そしてその根源にあるのは筆者の研究の一つの眼目である本武蔵兵法の源である、宮本家古伝武術なのではないかと言う一つの仮説を立てたいのである。

宮本家兵法
しかしながら宮本家兵法とは無双流なのであろうか? 少し違うような気がする。追求してみよう。
そもそも宮本武蔵の養父、宮本無二之助の流儀は「當理流」であったとされている。これは何故そうされているかと言えば「當理流」を記載した伝書が数点現存するからである。実際に無二之助直筆のものも現存しているのであるから「當理流」を名乗ったことがあるのは事実なのだろう。しかし無二之助の門人はどういうわけか多くが「無双流」や「天下無双流」を名乗っているのである。
無二之助が、「當理流」を名乗っていたことは三通ほど残る直筆伝書に流名があり、また門人の水田氏伝書にも「當理流」の名乗りがあるのであるからこれは確実であり、反面無双流を記載した直筆伝書は存在しない(もしくは発見されていない)。資料の量から推し量って、無双流と名乗った時期はなかったようである。
しかしそれでは何故に門人が「無双流」と名乗ったかと言えば、これは恐らく無二之助が「當理流」と名乗りながらも自己の名の上に天下無双を冠していたからであると考察出来る。そもそも無二之助と言う名前も「無双」の意味合いと同じ、読みまで同じ「フタツとない」である。「天下無双」と言うのは『二天記』に依ると足利将軍の元で吉岡拳法と御前仕合いを行って勝利を納め、「日下無双」の称号を賜ったと言う処から名乗り始めたのだと考察できる。以後無二之助のキャッチフレーズとなったのだろう。
事実伝書に常に記載し、印鑑にも「天下無双」の名乗りを入れたことが現存伝書から確認できる。

名乗り
「當理流」よりも無双流の方が分かりやすく、格好よく、一般受けすると考え門人たちは寧ろそちらを採用したのだろうと思われる。そしてまた「天下無双」と言うのは当時の武芸者たちの流行り言葉であったのではなかろうか。杖術の達人、夢想権之助も天下無双を名乗り、また自身も無双権之助と名乗ったと言う論もある。しかし別の考え方を示せば武蔵との関わりより権之助は無双を名乗り、神道流にムソウを加えて神道夢想流を名乗ったのかの知れないのである。
宮本家との関わりで「無双」を名乗ったと思われる流儀に今一つ「無双直伝流」がある。この流儀と荒木無人斎と荒木流との関連を含め、根源に宮本家流儀がある可能性が強いことは以前に考証した。このように考えて行くと江戸初期から各地で現れてきた「ムソウ流」の多くは宮本家兵法を根源としているのではないかと考察出来るのである。想像以上に宮本家兵法は後世に様々な影響を与えている事になるわけである。

近隣
宮本兵法の根源の地は作州岡山であるが、内海を隔てながらも讃岐は本当に近い國なのではないかと思うのである。現在では橋が掛かって一直線であるが、近世世界においても小さな船一つでも鳴門の渦さえ注意をすれば一漕ぎだろう。宮本家兵法が対岸の讃岐に渡って彼の地に各系無双流が伝承したと言うのもあながち的外れな観察ではないと思うのである。

無双流・無相流・天下無双流
讃岐には確かに幾つかのムソウ流がある。今一つ著名なのが金森山城守と長尾大隅守を流祖とする無双流である。これが無相流の源泉になったとも観察できるが、丸亀藩で行われたと言う天下無双流との関連が今一つはっきりしない。
天下無双流は宮本武蔵の門人、藤本左近系統の総合武術で、嶌左之右衛門を通じて中條勝次郎に伝えられた。
この中條氏が無相流を伝承したのであるから無相流の根源は藤本左近系の宮本家古伝兵法であるのかとも思えるが、これが少しややこしくなっている。
というのはこの嶌左之右衛門は別の人脈を記載し、嶌理休翁を開祖とする「無相流逆取」を伝承し、その目録を中條氏に伝を与えているからである。そして内容的にそれは中條無相流とほぼ同じなので、中條無相流の根源は嶌理休系の無相流逆取にあると考えられる。
しかしこの無相流逆取と藤本系の天下無双流との関係が微妙なのである。伝承者が違うので別系のムソウ流かとも思えるが、無相流の伝承者は皆嶌姓を名乗っており、一概に無関係とも思われない。嶌姓が数代続いているので家伝したとみるのが妥当であるが、名前が双方微妙に違うのである。そして嶌傳「無相流」伝書の記載によると流儀を継承した(もしくは開いた)嶌理休と言うのは何と嶌左近の五代であると言う。もしくは孫との記載もある資料もあるが、次の嶌左之右衛門は七代之孫とあり、両者の間に何代か存在した事を示唆している。伝書の中にはその間に嶌市兵衛を入れたものがあり、これは藤本傳天下無双流にある人脈なのである。
しかしよくよく考えてみると武蔵の門人、藤本氏も左近を名乗っているが、これは偶然なのだろうか? と言うことは藤本左近の正体は島左近と言うことなのだろうか? いやこれは島左近の年代を考えた時かなり難しい。しかし……。

島左近
島左近と言えばいうまでもなく最後の戦国武将の一人であり、石田三成の懐刀。西方の武将として宮本家にも関係がありそうである。しかし残念ながら島氏は関が原の戦い、即ち千六百年に戦死しているので、当時十七歳であった武蔵に師事して流儀を継承し、それを次代に継承する事はかなり無理である。しかし武蔵の先代に師事したと言うのであるならば可能性はあるかも知れない。藤本左近の次代は嫡子と思われる藤本兵庫であるからこの時期に武蔵に師事したと無理をすれば考えられないことは無い。しかし島氏が藤本姓を名乗った言う記録はないし、号も諱も違うのであるから到底同一人物とは思われない。
しかし島左近と藤本左近がたとい別人であるとしても島家の末裔が藤本傳天下無双流を学び、無相流として伝承したとも観察できる。ただ天下無双流と無相流との内容比較が伝書の僅少さ故に筆者としては未だ出来ず、確言は出来ないのだけれども。
ともあれ嶌傳「無相流」とは宮本兵法の流れから出た流儀である可能性はある程度あるのではないかと思えるが如何なものだろう?
また金森系の無双流との関係も不詳で現時点では結論を出せないので、先ずは問題提起に止め、今回研究対象とした伝書の解析に戻ろう。

年代
発行年代は明治三十八年のかなり遅い時期で中條勝次郎の孫弟子の樋口政次郎が発行した伝書で、授巻者は福井勝という者である。
巻題は『無相流新柔術序極意根本皆傳之巻』となっている。流儀の最高奥傳の巻物なのだろう。その内容は活法術である。
目録とその図柄内容は以下の通り。筆者なりの解釈も加えて解説してみよう。

一 見分術
(口に手を當てる図。口息を調べているのだろう)
一 見分術
(手首を取り、眼球を調べる図。手脈と瞳孔を調べているのだろう)
一 小鏡之術
(跨がり腹辺で小鏡を掲げている図。鏡面に息の曇りが出るかを調べているのだろう。ただ図が腹辺にあり、片手を翳している部分が気になる。別の使い方が有るのかもしれない)
一 口傳
(腹に手を當てた図。腹活を加えているのだろう)
一 口傳
(背後から腹辺を支えて吊り上げている図。水を吐かしているのだろう)
一 口傳
(女性の身を起こし腹辺を押さえている図。腹活の一種だろう)
一 口傳
(背後から背を抑え、尻を足で當てている図。背活の一種か、もしくは睾丸活を施している処であるのかもしれない)
一 口傳
(上方から頭をに手の當てている図。首の調節をしているのだろうか)
一 口傳
(背後から起こして背中に手を當てている図。背活を加えているのだろう)
一 口傳
(背後から背中に膝を當てている。一般的な背活を加えているのだろう)
一 口傳
(背後から両手を首に巻き膝を當てている図。背活の一種だろう)
一 口傳
(木枝から首吊り人を降ろそうとしている図。手を腹に巻き、降ろし方に口伝があるのだろう)

以上伝書に現れた図の紹介をなしてみた。
図は明治の時代を反映して全て髷は落としている。袴ははいていない。

図版の出自
さて問題はこれらの図がオリジナルかどうかという問題である。この時期は活字本なども出ていたし、當身活法の名著と言える『柔術生理書』も発行されていた。両者を比べてみると確かに似た図もある。しかし必ずしも『生理書』の体系に準拠してコピーされているわけでもないようである。また小鏡之術のような独特の術も描かれている。しかし活法に関してはかなりの数の公刊書が江戸期から発行されており、それらの中にはこの樣な図があるのかもしれない。
そして実を言えばこの伝書と殆ど同じ内容の伝書が存在するのである。それは大正十三年に発行された双水執流の伝書で「新柔術」と名乗り、正に書き写した如く内容が全く同じである。年代的に見ると無相流伝書が早く、そして「新柔術」を称えたのは中條氏とされているので原本は無相流の方であると考えられる。しかしそのまた原本もどこかに存在するのかも知れない。これはこれからの探求課題としたいと思う。

共通性
日本の柔術は武術分野においては各流独自の形文化を醸成したが、活法技術は純粋にテクニックの世界であるので、技術自体はかなり各流共通性があったのでは無いかと思われる。また錬磨の度合いも一般の武術技法は最初から最後まで徹底的に錬磨されるが、活法教傳は多くの場合、流儀の最後段階で口伝として伝授されるに過ぎない場合が多く、それほど深い流儀の文化性は醸成できなかったのではないかと考察できる。
一般的には皆心得程度の教えであり、それを以て体を練り、精神を錬磨するというものではなかったわけである。
ただ流儀の家元は柔術と平行して骨接ぎや医療を行っている事が多く、それなりに実践をこなしていたからそれぞれ名人芸としての深い技術を保有していたのではないかと思われる。

柔術と活法
柔術と医術の事は今までにも何度か論じた。全ては流々の事であり、一概に規定出来る事ではないのかも知れない。ただ蘇生活法の事については柔術の一部門であるのでこれからもある程度追求して行きたいと思う。
筆者自身の活法の学びとしては大阪傳澁川流のやり方は先代から直々に教傳を受け、施行した事もされた事もあり、当時のやり方を図に書いて覚書としたものを残している。柔道系においては基本的な膝を用いた背活のやり方は習ったし、見聞した事もあるが、筆者自身は施行した事がない。
その他は山田先生から色々な流儀の活法を口伝され、特に氣樂流のやり方は覚書も作成してほぼ完全な傳として保存しているつもりではある。
しかしながら柔術における殺法(柔術技法)と活法との根本的な差異は前述した如くの錬磨法の有無の問題があるのではないかと思う。
日本柔術の素晴らしさは武術技法を錬磨するのに深い文化性を含んだ形世界を構築した事であるが、活法伝授は手継ぎに依る口伝教傳はあるというものの、奥傳世界の儀式的な存在であり、根本的な錬磨法の世界は余り構築されていないようである。
しかし技術というものは常に錬磨していなければいざという時に役に立つものではなく、筆者自身もある程度の活法傳は学んだが、普段の必要な時に自在に発揮出来るか余り自信がない。また学びが実際にどの程度効果があるのかも試した事がないので確信が持てない。普段において事故に遭遇したおりは出来る限りの努力はなすと思うが、先ずは救急医療に連絡してからの事である。
ただ昔大学の研究所において事故で腕裏側をガラスで深く切って血だらけになった研究者に遭遇し、柔術で学んだ腕の血止め法を施しながら救急車に連絡して何とか助けた事がある。かなり血を流していたが、案外冷静に対処できたと思うし、教わった通りのポイントを押さえると確かに血が止まったので医療術の効果を実感する事は出来た。これは腕先を切った時に二の腕の裏を矢筈指で引っ張って血止めするもので、実験すると脈が止まり稽古時においても効果が実感出来る、中々よい教えである。その他足の怪我やその他の部分の怪我に対する血止め法もある程度学んだ。しかし実践をなしていないのでどれだけ効果のあるのかは分からない。
それはともあれ腕傷の血止めをなして救急医療を呼んだ時も、医療員たちが、巧みに怪我の度合いを把握して道具を用いながら対処して行くのを見て、やはり餅は餅屋であるとは感心したものである。勿論専門家には敵わないが、とっさの場合の処置として柔術系が伝える活法術もいざのという時に役に立つ事もあるのではないかと思われるのである。

口伝
活法は簡単なようで中々に奥深い教えもあり、また細かい口伝も多い。現代武道では基本的なものしか伝えられず、そもそも稽古(現代武道では練習と言うらしい)体系の中には入っていないのでどうして等閑になりがちであり、奥深い部分は伝授されずに終わるのだろう。
古流柔術では奥に行けば儀式としてもその様な技術が伝授される処に良さがあると言える。これは何も奥に行かなければ活法を学べないと言う事では決してなく、筆者の体験によっても基本的な活法は伝授されるのである。普段の稽古でも必要なものであるのだからそれは当然であるといえるだろう。

活法の流儀
柔術にはどの流儀にも大体はある程度の活法技術が伝承していたと思われるが、骨接ぎやその他漢方医学がどの程度入っていたかと言うとかなり難しい問題であろう。しかし少なくともこの讃岐の無相流には蘇生活法は伝書にされて教傳されていたことが分かる。そして別の伝書のなかには骨接ぎ図版をかなり入ったものもあり、楊心流系に劣らぬほど医療(緊急医療と骨接ぎ)には力を入れていた流儀であった事が窺える。
これは明治以降に伝承した柔術全般に言えることであるが、流儀の根源にその様な医療技術がどの程度含まれていたかは不詳ながら、明治以降の伝搬において骨接ぎ技術などが重んじられあるいは活計の糧としていった過程が窺える。全国の柔術流儀が挙って骨接ぎや医療術を取り入れて伝書なども発行していたのだろう。本来的に活法傳文化のそれほど無い流儀は他から借用して伝書を作成していたようである。
無相流の場合はどうか言えば幕末の比較的新しい流儀であり、明治以降に他の殺活法文化を取り入れて流儀を形成していったのではないかと思われる。

無双流(無相流)にはまだまだ多くの謎があると思う。いま少し資料を充実させて謎に迫って行きたいと思っている。
  [続]

[古流柔術月例会々報題百七十二回]

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