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●第一ラウンド「疑問1」

武蔵の生誕地問題は難しい問題であるが、今日の多くの研究者は播磨説を強弁的に主張する事がどうも多いようである。これは宜しくない。しかもどれもかなり剽窃と強弁ばかりである。先鞭をつけた山田次郎吉翁や綿谷翁あたりは作州説の弱点を指摘したと言う事で価値あることであると思うが、後の研究者の仕事は余りにも論説が粗く困ったものである。

播州生誕説、それも米田村生まれ、田原家の家系論が定説になりつつあるが、これは正直な所かなり苦しい説ではないかと思う。

よって作州説にあれだけ疑問を呈しながら綿谷翁自身最後まで疑問符を付加されて語られたのであると思う。

米田説の文献は持て囃されるほどレベルの高い文献があるわけではなく、文証は殆ど幕末に近い宮本家文献しかないのである。そして父母の没年における矛盾は作州説以上に大きいのである。

また一級資料である小倉碑文や泊棟札書に田原家と武蔵の関係は書かれていないという矛盾がある。これは確かに大問題だろう。

またそれらの資料の中に十代になって「初めて播州に至る」と云う記述があり、「播州の英産」と云う謂いと同一文章で全く矛盾している記述があり,この点も良く作州説の補説として用いられる(※)。

よって最近では『播磨鑑』による揖東群太子町宮本村が生誕地の候補に上がり、強く支持する研究者もあるようである。

 

(※ 播州生誕説派のある武蔵研究サイトの解説によるとここは「方に年十三にして、始めに、播рノ到りし新當流有馬喜兵衛なる者と進みて雌雄を決し、忽ち勝利を得たり」と読むのが正しいと指摘している所があった。管理人自身、確かに然りかと思う部分がある。ただ漢文とは本来中国語そのものなので、日本語変換には多少の意味の齟齬、異同が生じる事が多く、真の解釈という事では難しい問題がある。そして明治以降大体「初めて播州に至る」という風に読まれてきたという流れがあり、そのように読まれる事にも一つの妥当性があったとも言えると思う。ただ確かに泊棟札の播州の英産という謂と矛盾する事は事実であり,この部分の解釈はこの点を鑑みて論じなければならないと言えるだろう。)[この点は第3ラウンドで再論する予定。]

 

●「疑問2」

しかし太子町説にも問題があると思う。

一つは他系からの傍証があまりなく、家系など全く不詳である事。播州揖東郡説を記載した古い文献も二つほどあったかと思うが、どうもこの文献が原典ではないかと観察されるのである(※)。

いま一つの問題点はこの地が宮本村と呼ばれていた事である。武蔵が生誕地問題を別にするとして、少なくとも揺籃の地は美作吉野郡がほぼ定説となっている。泊神社文献でも「作州新免氏の跡を継いだ」としているし、実際新免は美作の氏である。そして比較的古い文献が美作に複数残っておりこの点においては播州説側にも余り反対論はないわけである。ところがこの揺籃地は吉野郡宮本村と言う地名である事に注意しなければならない。美作の宮本村であるからこそ宮本無二であり、宮本武蔵なのである。と言う事になるとこれは不思議な事に揖東郡の宮本村の名前に一致してしまうのである。もし太子町説が正しいとするならば、武蔵は播州の宮本村から美作の宮本村に移住したことになる。こんな偶然があり得るのであろうか(ある得ることはありえるが、かなり少ない可能性である)。これは確かに不思議な事なのではなかろうか。これを合理的に解釈するならば、推理すると地元(近く)の宮本村から出た武蔵、つまり宮本武蔵と言う剣豪は近隣にも名が轟き、地元の『播磨鑑』の著者、平野某もその様に聞いて、近隣の宮本村出身と言う情報、それに加え類書の武蔵は播州生誕と云う情報を合わせ、両者を以て地元揖東郡の宮本村と生誕地を確定したのではなかろうか。かく確定したからこそ「揖東郡鵤之辺宮本村と云う」等と云う伝聞的な書き方ではなく、比較的確定的に著述したのではないかと考えられる(宮本村出身だから宮本武蔵−−こんな分かりやすい論理はないではないか)。

 

(※ 武蔵絵の箱書きに1718年の年期で「揖東郡宮本邑」と書かれている資料がある事が分かった。比較的古くから生国播州、そして宮本村出身と云う二つのワードをもって地域検索が行われていたのかも知れない)

 

●「生国播磨」の問題

播州説に疑点をいれたが、しかし各研究者たちが播州説に執着するのはある意味では当然である。それは武蔵自身が「生国播磨の武士、新免武蔵守藤原玄信……」と書き残しているのであり、初期の一級文献は武蔵を播磨の人と悉く著述しているのだから。対して作州系の資料など所詮は写しばかりの第二級文献ばかり……と感じられるのは無理ではないと思う。

しかしよくよく考えてみると武蔵の独白、第一級文献と言っても実を言えばそれも写しであり、超一級文献と云うほどでもない。そして初期の一級文献と言ってもその武蔵の著述(と言っても写し)に引きずられての記述と考えるならば、多くの文献と言っても所詮は武蔵の一言の記述、その写ししかないことになるではなかろうか。勿論一言の語りも本人の言であるからないがしろに出来ないが、よってイコール播州生誕とするのは早計である。問題点が幾つかあると思う。上げてみよう。

@第一次文献ではなく、やはり写ししかないこと。

●解説

五輪書は原本は消失し残念ながら写ししかない。各地に写本が残っているが、それぞれ多少の異同があるようである。しかし異同があっても問題の箇所に異同があるわけではなく、よってこの部分は正しいのでは云う考え方もあるだろう。しかしこれは少し甘い。第一次の写しは孫之丞によってなされたと見られるが、この時点で少し文脈を誤れば意味はかなり違って来る。それを皆が写したと見ることが出来るからである。

A五輪書には序文はないが、所謂地之巻の冒頭部分は後から付加されたと云う説がある。となると武蔵の日頃の口伝から纏めた部分と云う事になる。

●解説

これは一説で各著述した文献もあるが、最近の研究では寧ろ否定的であり、やはり五輪書の草稿は武蔵が全て仕上げたと云う説が強く、筆者自身とそれがほぼ正しい想定ではないと感じられる。ただ勿論確言は出来ない。

B五輪書の原本は病身の武蔵が最後の力で書き上げた草稿であり、完全の作品ではない。

●解説

これはほぼ正しい捉え方であり、その通りだと思う。とすると若干中に不正確な記述があっても不思議ではないと言えるかもしれない。ただ思うに残った著述は中々に立派であると思う。孫之丞がそれほど校正している様には感じられない。やはり武蔵は天才と云う感がある。晩年に体は病んでも頭は最後まで惚けてはいなかったと思う。

ただし筆者もパソコンで文章を書きつつ厳密には不正確な著述をしてしまう事が多く、そのを正す校正は絶対必要である(校正しても間違いが残る事が多く、果ては編集者に改竄されて間違いを残すことも多い。以前「御宗家のご息女」としたのを「御宗家の子女」とされた事がありひっくり返った)。その分の不正確さはあった可能性はあると思う。

B武蔵の意識の問題があり、武蔵は産湯を使った所はともかくとして自己の真の故郷と云う意識との少しずれがあったかも知れない。

●解説

一つ言えることは余り戸籍も役場も現代のように厳密ではなかった時代に出自や年齢の記述を額面通りに受け取るのは危険ではないかと感じられる。美作と播磨を比べると美作ははやり田舎と云う感じがする。播磨は平野が広がる城下町であり、世界文化遺産、白鷺城がある。また武蔵、そして養父の無二斎の出自は播磨の名門赤松一族であり、実際武蔵は明石の小笠原侯に仕え、武蔵のホームグランドと云う意識は常にあり、実際「播磨の武士」と云う謂いを武蔵は常にしていたのではないかと思う。

C「生国播磨の武士新免武蔵守藤原玄信」と云う矛盾と自負。

●解説

厳密には矛盾ではないが、新免家は美作の顕氏であり、取り合わせは少しちぐはぐである。晩年には武蔵は殆ど「新免」を名乗った。若いころは「宮本」で伝書を発行しているが、これは確かに「宮本無二斎」の次代であり、当然である。思うに武蔵は田舎侍としての上昇指向がある様に感じられる。故こそ若くして美作を出て都に上がり名門と戦ったりもしたのだろう。晩年に至ると人間は名誉に拘る事となる。宮本村の宮本武蔵ではなく、新免氏を名乗り、播磨の名門、赤松一族の末裔を強調していたわけである。多少の矛盾はそれほど意にかいさなかったのだろう。考えて見れば武蔵の生まれた箇所など実質的には余り重要な問題ではないとも言えるだろう。

 

●作州説の問題点

武蔵の死後の直後は播州説が多かったが、ある時期から作州説も浮上してきた。1790年の『撃剣叢談』は作州説をとった(『撃剣叢談』の初版の時期であるが、1800年代の再版本が知られる。ただ1790年版の完全原本を見ていないので同箇所が同じ記載があるか未だ確かめられないでいる)。

以後『東作誌』を通じて各研究者たちも作州文献を知り、作州説が形成されて来るわけである。明治の研究書を含めて作州生誕伝説が次第に定説となってゆき、そしてそれが吉川武蔵を生むこととなったわけである。

しかし山田翁を含めて反論も多かった。第一の問題点は父の死後に武蔵が生まれた事となっており、これは確かに矛盾である。

勿論武蔵における「生国播磨」と云う独白も問題であるし、非難する材料は確かに揃っていたわけである。

 

●年代合わせ

確かに父の没年と武蔵の生年は重なってはいない。しかし田原家系図ほどには離れていないとも言えるのであり、絶対にありえないと云うほど離れているわけでない。父の死後子供が生まれると云う事は生物学的にも決してないわけでないのだから。

父平田武仁の没年が天正八年(1580)で、武蔵の生年は天正十二年とも十年とも言われている。これでは確かに血の繋がり様はないが、僅か一、二年の問題である。武仁の没年は墓などもあり、不動であるとして、武蔵の生年はいま一つはっきりしないと云う事を認識しなければならない。

 

●武蔵の生年

そもそも武蔵の生年を探る資料は基本的に一つしかない。五輪書の「とし積もって六十……」と云う記述であり、寛永二十年(1643)に60であるのだからと云うことで推定するしかない。当時としては数え歳が多かっただろうから天正十二年(1584)が生年となるが、満で言えば天正十年から十一年の可能性がある。実際武蔵の年齢を天正十年とする文献もあり、これで大分武仁に近づいたと言えるであろう。しかし武仁が1580年に死んだとするならば1582年に武蔵が生まれる事は生物学上は無理である。

しかし余りにも近似した年代差であり、そもそも当時の生年をそれほど計算づくで算出する事自体がナンセンスだと知るべきであると思う。

武蔵の著述にも多少の誤差があっても不思議ではないと言えるだろう。五輪書の文章は韻を含んだ文章であり、二、三歳の誤差はあっても不思議全く不思議ではないのである。早い話が近年においても例えば近代空手の祖、船越義珍師範も生まれてから事情により数年出産届けがされなかった為に実際の生年と数年の誤差があると自分で記載しており、また時代考証の大御所、筆者の尊敬する名和弓雄先生も全く同じで戸籍届けよりも数年以前の出生であると云う。

となると武蔵の生年も二、三歳の誤差を認めるならば天正八、九年位まで次代を上げても全く不思議ではなく、是であるならば武仁の遺児として美作の地に産声を上げた可能性は十分にありえるのである。

 

●真説作州生誕論

思うに播州説に問題が多くあり、逆に作州方にこそ現地に根ざしたある程度の資料が存在したからこそ播州説が次第に作州説に変わってきたのであると思う。実際作州説を支える文献は比較的古いものを含めてある程度存在している事を注意しなければならない。実際美作宮本村で育ち、十何歳かまで同地で作州宮本家兵法を学んだことは間違いないのである。実際口伝承を纏めて、若干の胡乱な部分があるとは言え、作州にこそ家系図をふくめた武蔵の出自の伝承がある以上、決定的な矛盾なく、特に播州生誕説における有力な資料が存在しない以上は作州説ととるのが史家としては妥当な判断ではないかと判定する者である。

 

●「推理」

作州説を取るならば、武蔵の出自の真相はどういう流れになるのであろうか。それは今日完全考証する事は出来ない。その為の文証が全く不足しているからであり、『東作誌』も「資料錯綜して考証不能」と云う様な事を述べているのである。しかしある程度の想定は出来る。とは言っても一点の矛盾点があれば全体像的にアウトであり、条件はクリアーしなければならない云う立場の推理は出来る。

これは手品のタネの推理と同じなのである。真のタネはマジシャンから種明かしをして貰わなければ不詳であるが、現れた現象をみて完全の不可能系マジックでない以上は色々なタネの想定が可能である。それが現象と矛盾しなければ一つの解答となりうる。その様なレベルの推理は可能であり、少し考えよう。

 

●「真相」

まず武蔵はやはり平田武仁の嫡子であると考える。平田家は美作に実在する名家であるし、ちゃんと墓石まであるのである。その家系図に武蔵が嫡流として出てくるわけであるから、それを否定する資料が特にない以上は頭から否定せずに認める方向性で検討して見るべきである。

確かに平田系図が表に現れたのは『東作誌』編纂の1800年代であるが、家系図とはえてしてそういうものであるし、年代的にも宮本系図よりは早いのである。内容的には年代問題も含めて確かに問題点がある。これは要するに火事で資料が燃えた為に後から記憶を頼りに作成した資料であると云う事である。遠祖の平田将監の名があり、戦国末期の当主、平田武仁、その嫡子として武蔵があったと云う伝承があったのだろう。将監と武仁との間の何代かは既に名称事跡が不詳となっており、そしてその記録も火事で失われていた。

しかし著名なる剣豪、武蔵が平田家からでたと云う口伝承は残っていたと云う事なのだろう。それが、全く虚説ではないと云う文証として元禄年間位の宮本村の古文書があり、確かに同地に武蔵がかつて存在したをある程度証している。

平田武仁と武蔵が何とか血脈的にも繋がる可能性がある事は前述した通り。ただ生まれた時には実の父親は既にこの世になく、母であるお政も数年を経ずして亡くなっている。

しかし父の卒したあと生まれた武蔵の養育を扶け、養子となしたのが隣家である親戚筋でもある平尾氏である。この侍は平田武仁の武道と名跡を引き継ぎ、無二となる。宮本村の無二であるから正に宮本無二である。この武士が以後多くの武術家を育て、武蔵の師匠となった宮本無二之助一真である。

恐らく平田武仁の門弟であったのだろう。恐らく平田武仁も宮本村の武仁として宮本武仁と名乗っていたのだろう。この美作宮本村のの兵法古家(平田・平尾の両家)に伝わった武術こそが宮本武蔵の武術の原典であり、またこの家で伝わった秘武器製造技術が独特の十手を生み、それが、江戸期の捕方十手の源脈となったと観察される。その鍛冶技術は天才鍔師、「金家」「信家」までを生むこととなった……と云う説もある(これは想定であり両者未確定)。

 

●平田武仁と宮本無二との関係

両者は隣家と云うより向かい合わせの家であり、親戚筋だったと思われる。家系的には少し異同があるが、平田家も半分は赤松一族の系脈を引いており、同族意識はあっただろう。そして同じく家伝武術を護っていたと思われる。両者の武術系の差異は今となって不詳だが、両者が友好稽古を続け、一つの武術として融合されたと思われる。平田武仁までは特に流名的なものはなかったと観察されるのである。平尾無二こと宮本無二斎一真は家伝の武術、平田家武術に加え竹内流や新当流なども貪欲に学び、当理流なる武術を創始した大武芸者であったかと思うのである。年代的に考えて本位田氏を討ち取ったのもこの武士であり、主家筋から「新免」の氏まで賜っており、公式の場では「新免無二」を名乗ったようである(後の筑前の資料では新免無二、播州武士と云う風に記載されている。正し武術伝書は宮本無二で発行している)。慶長年間まで美作に住みながら赤松一族の末裔の矜持を持ち、播州武士を名乗った。そのプライドは武蔵までに通じている。

流石に戸籍や養子手続きの当時の様子は現代とは大分違ったであろうしよく分からない所があるが、武仁の後を継ぎ、未亡人であるお政を補佐して武蔵を育てる間にお政と愛し合うようになっとも考えられる。よってお政は平田武仁の妻であると共に亡くなったあとは宮本無二斎の妻ともなったわけである。ただこれはそれぞれの系図や口伝承から推理しているわけであり、当時の男女の微細な関係までが判然としているわけではない。これを考えるといま少し可能性が広がり、武蔵は宮本無二斎とお政との間に生まれた子供の可能性も出てくる。つまり宮本無二斎は平田武仁の武道と名跡を引き継ぎ、未亡人の面倒までみたと云う事になり、だとすると武蔵と武仁との年代的な疑問は解消し、武蔵は天正十二年生まれでも全く構わないわけである。ただこの場合、天正十二年に武蔵を生んで、まもなくお政は武蔵と命を引き換えにして亡くなっている。当時は現代的な産婦人科病院もない時代であるから確かにありえる事であるだろう。

どちらが正しいのかは今となっては不詳だが伊織系宮本家文献が武蔵は宮本無二の養子としており、また講談その他でも武蔵は養子になり、養父に武術を仕込まれたことが伝説化しており、養子説はかなり口伝承として存在したように思われる。ただ伊織の根本文献では養子説は必ずしも明確ではない。しかしながら平田系図の存在を鑑み、特に矛盾がない以上は平田武仁の実子、平尾無二の養子となったと云う説を取るべきかと考える。

 

●「投影」

長く平田武仁と平尾無二との分別が出来ておらず、研究界に混乱と矛盾が潜んでいたのであるが、綿谷翁の探求により、別人として処理する事が出来るようになってきた。双方宮本村のムニであるのだから混乱するのも無理はなく、それは伊織なども同じでやはり両者を混同し、胡乱な著述をなしていると観察される。泊棟札の「作州の顕氏神免は天正の間、嗣なくして筑前秋月城に卒す。遺を受け家を承いで武蔵掾玄信と曰い、後宮本と改む」との記述は微妙に両ムニのことを混合して述べている事が観察できるであろう。

天正年間、秋月城と云うのがそもそも矛盾であり、前者は平田氏、後者は平尾氏の事を述べ、混乱しているわけである。また武蔵と平尾無二と取り違えいるような記述もある。古の文書は額面どおりに解釈するのではなく、ある程度の補正を加えて真相を探求する立場が必要かと思うのである。

 

●「宮本村古文書」

1700年代の初め頃の資料が美作宮本村に幾つかあり、それに宮本無二と武蔵の事の記載がある。内容は生々しく、写し文献で多少の齟齬や誤謬があったとしても当時の大体の様子は正しく伝えているのではないかと感じられる。宮本の構えとは平田、平尾の両家、その保有する財産(田畑を含め)ではないかと推察できるのであり、確かに当地に足跡を残していたのだろう。慶長年間までいたと云う記述も大体真実を伝えていると思う。

 

●「年齢想定」

平田武仁から平尾無二への継承は微妙な点があるが、疑問なのは平尾無二の年齢である。鉄人十手流の特殊な資料に1570年位の生まれとするものがあるが、この資料は胡乱な著述が多く余り信用できないので、無視する事とする。何せとなると武仁死亡時には10歳ほどとなり、武蔵を養子どころではないのだから。

慶長18年(1613)位までは生きていたとみられる比較的ちゃんとした資料があるので、このおりに70歳位と見ると平田武仁が1580年に死んだおりは37歳である。武仁の名跡を継ぎ、武蔵を養子にするのは何とか十分な年齢であろう。武仁の死亡時には妻のお政は44歳で身重であった。身重のお政の面倒をみ、生まれた武蔵を養子にし、次第にお政を愛するようになり、妻と迎えたのだろう。多少お政が姉さんであるが、お互い中年同士であり、違和感はそれほどなかっただろう。

ただ平尾系図によると平尾無二の妻は平田武仁の妹(もしくは娘)、が妻であったとしている。だとするとこれは不味い。不倫になる。しかし既に病気か何かで死去しているとすると可能性はあるだろう。武仁の妹となるとそれほど年齢差は考えられず、武仁の死亡時は10歳違って53歳。平尾無二よりもかなり年上となり、妻としては少し考えにくいだろう。娘とすると25歳くらい歳を引いて28歳で平尾無二の妻としてふさわしい。当時では20歳代の病死もそれほど珍しい事ではなかっただろう。となるとお互い後家と鰥夫であり、無二とお政が愛し合ってもそれほど不思議ではないだろう。武仁娘の若死については全く資料がないが、お政が平尾無二の妻でもあるとする文献があるので(※)、そのように推理したのみである。武仁娘も生きていて共抱きしていた可能性もあるが、これは親子丼であり、余りにも如何なものかと思う(仮令娘が死亡していてもある意味では同じ事ではあるが)。この部分は大分錯綜しており、資料の記述をいますし補正し、正しい認識を導く必要があるだろう。

 

(※ 平田武仁と平尾無二の妻が両方「お政」であることを綿谷翁が書いており、それに従って考証しているが、資料をざっとみて原典が分からなかった。筆者の見落としかと思うが、ここは取り敢えず綿谷翁の著述に従って考証する事とする)

 

●「資料の補正」

平田系図と平尾系図を並べると微妙に後世のものが両者を混同して胡乱な著述をしているように感じられる。矛盾が幾つかあるが、平尾系図では平尾無二の妻は平田武仁の妹とするが、これはかなり難しい年齢であることは考証した通り。そして平尾無二の娘おぎんに衣笠家から婿を貰い平尾(宮本)与右衛門として家を継がせる事になっている。しかし平田系図によると平田武仁の娘におぎんがおり、これが与右衛門に嫁いだ事になっている。これは大いなる矛盾と言えるだろう。どちらが正しいのか? 

さきほども述べたように武仁の妹が無二の妻となるのは年上過ぎて少し難しい。もし武仁の娘であるとすると、これは年齢的にはそれで良いが平田武仁娘おぎんが平尾無二娘、おぎんを生んだことになり、これは奇怪しすぎる。

此処から先は大きくわけて三つの可能性がある。平尾無二は平田武仁の名跡を継ぎ、武蔵を養子に迎えたのであるから、当然のことながら武仁娘おぎんも養子として共に迎えたのは当然である。

となると平尾無二の妻(武仁妹?娘?)は新たにおぎんを生む必要はない。

しかし年齢的な無理を越えて一応系図に書かれているのであるから平尾無二の最初の妻は武仁の妹の可能性は捉えておくべきである。前述したようにこれはかなり年上女房であるから子供も作らず、やはり若死していたのだろう。

いま一つの可能性はおぎんは平尾無二の実の娘とする。おぎんを生んだあと、武仁妹はかなり高年齢出産であり、出産直後死亡したのではなかろうか。これは大分すっきりした解釈であるが、これだと平田系図の武仁娘おぎんと云う書き込みは平尾無二と混同した誤記であると云う事になるだろう。

武仁娘が亡くなっておればお政といくら愛し合っても結構であり、後妻に迎えたのだろう。ただ数年を経ずしてお政も48歳で亡くなっている。

故にこそ平田武仁と平尾無二はお政と云う一人の女性を妻にしていると云う不思議な事がおこり、後世の研究者の頭をひねらせたわけである。

 

●一つの可能性

タネは色々あるがややこしいので筆者が妥当だと思う一つの可能性の筋書きを書いておこう。平尾氏は平田武仁の弟子であり、年齢差は二十五歳くらい。豪傑平田武仁について少年期から平田家兵法を学んでいた。見込まれて二十数歳のおり、武仁の妹を嫁に貰う。年齢は平尾氏よりも何歳か上。となると二十年は武仁より若い妹と云う事になるが、親の妾その他の可能性を考えると当時としてはありえる年齢差かも知れない。数年後武仁妹三十数歳の時に娘、おぎんを生むが出産直後に母は死亡し(勿論生んでから数年後の死亡でも良い)、生まれた娘、おぎんは父親に育てられる。それを平田夫妻は男やもめの平尾氏の子育てを親身になって随分と扶けた事だろう。但しこのおりの平田武仁の妻は率子と云う人で伝と云う子供があった(※)。武仁が54歳の時、16歳で一子「伝」を生んだと云うからかなりの幼妻であり、いささか犯罪的ではあるが、当時としてはありえたのかも知れない。ところが何年かして武仁はお政と浮気をしたので、頭にきた率子は子供を連れて実家に帰り、武仁とは離縁してしまった。そのあとにお政が後妻として入っていたわけであり、一種の奪略婚である。既にお政も40歳前後の年増であったと思われ、前代感覚から言えばそんな馬鹿なと思われるかも知れないが、男女の機微は難しい。そもそも武仁にとっては中年のお政でも娘ほども年齢が違い熟女の色香に迷ったわけである。二十歳前の率子では余りに幼すぎたのだろう。

ところが数年後、次には平田武仁が病気で亡くなるが、困った事に妻はみもごっていた。そして生まれたのが武蔵であり、それを扶けて武蔵を養子にしたのが平尾氏である。武仁の武道、名跡を継いで無二となり、宮本無二となる。恐らく平田武仁も地名から宮本武仁と名乗っていたのであり、それを引き継いだのだろう。宮本無二はお政を扶ける内にお政を愛するようになり、やはり後妻に迎えたが数年後お政もみまかることとなる。残った平田家の嫡子、武蔵に英才教育をなし、一流の兵法家に育てたのが宮本無二、つまり宮本無二斎一真であったわけである。後の両者の活躍は正に記録にある通り。

以上一つの可能性を物語風に語ってみたのみである。都から離れた山中片田舎にもそれなりのラブロマンスがあっても何も不思議ではないであろうかと思う。

 

(※ 率子は系図によると側室というような記載のあるものがある。ということはやはりお政が古女房で50歳をすぎた武仁が若い妾に子供を作ったが此処で多少の修羅場があり、率子は苛められて実家に帰った可能性もあるだろう。ただそれまで子供のなかったお政が最後に子供を授かったという不自然さがあり、別の可能性も模索すべきかと感じられる)

 

●「必然性と妥当性」

資料的に矛盾なく、妥当性も含めて解釈出来るのは播州説よりも作州説であると……と管理人には感じられる。史実解釈には妥当性、そして必然性という状況判断は是非とも必要な事である。この二つをキーワードとして少し探求してみよう。播州説の一端である米田説、つまり田原家系実子説(揖東郡宮本邑説でも家系は田原家系を取る論がある)ではそこから無二への養子となるが、ここには必然性の情報が全くないと言えるのではあるまいか。何故に作州の兵法家、宮本無二斎の養子になったのか。二つ理由を考えてみよう。

@宮本家の家の継承

●考察

宮本家の家を継承する為に養子を迎えたという事は考えにくい。無二斎に子供がいなければ致し方ないが、娘おぎんがおり、衣笠家から婿を迎え、そして宮本与右衛門が家を実際に継承しているからである。

A宮本家の武術の継承

●考察

武蔵の武術の才能を見抜いて養子にとったのか。しかしそれは武蔵が何歳の時の事であったのだろうか。田原家は特に兵法古家という情報はなく、子孫には武術家はなく、医者などが多い。少年武蔵もある程度の年齢にならなければ武術の才能も分かりにくいだろう。

ある程度の年齢で無二斎の養子となり、英才教育を受けて武術の達人になる事も出来ないわけではないが、武蔵十三歳には著名な兵法家を倒すだけの力を身に付けた事になり、これは少し早すぎる進歩ぶりである。そして「十三歳にて初めて播州に至る」と謂から考えると不自然である。

やはり妥当な解釈をなすならば、武蔵は仮令養子であったとしても幼少からある必然性を以て徹底的な英才教育をなさねばそのように力を若いおりから身につける事は難しいだろう。

 

●必然性とは

宮本家を地元で引き継いだ宮本与右衛門系が宮本家兵法を引き継いだ風は全くなく、古文書にもその由の記載がない。ただ昔の稽古道具が残っていたと淡々と述べているのみである。無二斎は何故に武蔵のみに家伝の武術を徹底的にたたき込んだのか。それはその兵法の本源が平田家兵法であり、武蔵がその遺子であったからと考えるのが妥当であり、ここに必然性があると言えるのである。

 

●平田家兵法の本源

平田家は兵法家の名家であり、平田武仁は大武芸者であったのだろう。平尾氏は門人として学び、師匠の死去と共に遺子を養子に迎え、先代の名を継承し、武蔵に英才教育を施したのである。

平田武仁が大兵法家であることは伝説ばかりの事ではない。無二、武蔵の兵法の本質は確かに平田兵法の中にある。無二、武蔵の伝えた捕手術の原形は竹内流にある考えられるが、竹内流開祖、竹内久盛と交流があったのは平田武仁の時代であったと考察できる。

竹内久盛は天正の初め頃に平田武仁と同じ大原におったという文証がある。武仁と同じく新免家に伝えていたわけである。また一説では別所家に仕えたと言われるが、武仁の妻(側室)は別所家の娘でであり、関わりのあるのはやはり武仁である。

管理人は久盛が新免家に来たのは決して偶然ではなく、久盛と武仁とは深い所で繋がっていたのではないかと考えている。平田兵法の内容を示す伝書は現存していないが、無二、武蔵の武術の中に竹内系の捕手術があり、このような部分にも平田家兵法の片鱗が見えるわけでる。その偉大なる平田家兵法を継承する立場において何故に宮本家を継ぐ与右衛門(※)系に継がす事をせずに武蔵だけに英才教育を施したかという事を血脈的な立場で鑑みなければならないかと考えるのである。

 

(※ 平尾(宮本)与右衛門は武蔵の義兄であるが、武蔵が指導し、竹村与右衛門となって尾張で流儀を残したという説もある。宮本家古文書と少し矛盾するが、いずれにしろ無二斎は義兄よりも武蔵を平田武仁兵法の後継者として徹底的に武蔵を鍛えた事は間違いなのわけである。ただ平尾与右衛門=竹村与右衛門説は別項で検討してみたいと思う)

 

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