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●二月一日「二軒の食堂」
食事をなそうとしたとき、近くには二軒の食堂がある。小さなお店と大きなお店。小さな店は中々趣のある佇まいであるが、看板やその他の造りはかなり古びており、それに大きな店と比べると確かに余りにも小さく数名が入るのがやっとのように見える。大きな店は大層モダンな造りで確かに大きく全国規模のチェーン店化をなしており、テレビCMでも良く見かけるし店名は確かに通っている。小さな店の古風な佇まいに心を残しながらも大型食堂の暖簾を潜った。
日本料理と看板にあったが、余り豊富なメニューはなく、料理は丼にてんこ盛りである。味はともかく何とか腹一杯食べる事が出来、食欲を満たすことは出来た。店を出る前に伝票を見るとそこそこの値段であるが、お腹いっぱいになったのだから致し方ない事かと思われた。
以来毎日の様に通ってそれなりに食欲を満たし、そこそこのお代を支払う生活が始まった。余所の店に入った事がないので別に疑問も生まれない。ただ何年か通う内、メニューが毎回殆ど変わらず、いささか飽きてくることは致し方ない。同じ様に通っていた連中も段々離れて少なくなって来た気もする。
ある時ふと普段気に留めないでいる小さなお店の前に足が止まった。少し高いのかも知れないとは思ったがたまには良いかと古びた縄暖簾を潜った。
入って見て驚いた。確かに店内は狭いが中々に豪華な造りであり、所々に置かれている置物は古びてはいるが、中々に良い品の様に感じられる。その意味で店の雰囲気は気に入ったがただ少し板前を兼ねた店長が頑固そうなのが少し気になる……。
料理は各種コースメニューであり、コースを選択すると、先ずは八寸(オードブル)から始まり中々に豪華な器に綺麗に盛られた料理が順に運ばれてくる。普段てんこ盛りの料理しか食べたことがなかったので、その美味しさは勿論、盛りつけの美しさには驚かされた。大型食堂の味の素たっぷりのドギツイ味ではなく、素材の味を100パーセント引き出した中々に手の込んだ料理であり、身体にしみ込んで行くような気がする。恐らく健康にも良いのではなかろうか。
個々の料理の量は少なかったが、料理の種類は多彩であり、焼き物、揚げ物、煮物などなど食べるに従いそつなく、バランスよく運ばれてくる。今まで味わった事のない至福の時であり、なるほどこれが日本文化なのかと感動させられた。大型食堂では発泡酒とホワイトリカーしかおいていなかったが、この老舗食堂で出される御前酒は純米大吟醸であり、素晴らしい香りである。確かにその文化の深さに堪能させられたが、ただ後のお代が少々不安になってくる。しかし清算をお願いして驚いた。なんと大型食堂よりも寧ろ安い位のお代なのである。目を擦って何度も明細を見直したが、間違いではない。不思議な思いで店を後としたが、それ以来その老舗食堂を大いに利用している。伝統的に伝えられた様々な料理を堪能しながらお代は不思議にも大型食堂よりも安いのである。この店の料理を味わってしまった後は大型食堂の人工調味料たっぷりのてんこ盛り料理などとても食べる気になれない……。

●大食い競争
以来小さな老舗食堂で食事をとることが多くなったが、ただたまに大型食堂を利用する事もある。それは大型食堂は色々イベントが多く、その毎に誘われるからである。多く行われるのは丼大食い競争であり、どんどこ早く多く食べることを競い、入賞者にはそれなりの記念品が授けられる。やってみると中々に面白く、何回か参加してみた。ただ競争に参加するにもある程度の参加費がとられるし、また大食いは健康に悪いのか、身体を害する者もいる。そして何回かやってみて流石に飽きてきた感もある。やはり老舗食堂を利用する事が多くなってゆく。
大型食堂に通っている仲間に老舗食堂の話をして誘った事もあったが、存外その安さと美味しさを信じて貰えない。そして一人は大型食堂の店長から誘われてチェーン店を出すと言う。客が急に支店を出して店長をやると言うのが信じられなかったが、聞くと本部からビニールシート入りの食材が送られて来て、それを温めて出すだけだから、一回講習を受ければ何年も板前の修行をしなくても誰にでも出来ると言う。支店を出す以上は老舗とは商売敵となる為一層通う事は出来ないわけである。料理の処方箋を聞いてますます大型食堂の料理には興味が失せる。
以来大型食堂には絶えて通わなくなり、店員や客などとも交流が殆ど無くなった……。

●譬え
管理人は拙い駄文を並べ、一体何に譬えようとしたのだろうか。しかし理想はともかくかくした小さな店は世界中を探しても既にもうどこにもなく、全て大型マスプロ食堂ばかりであり、全ては詮のないグチに過ぎない……。

 

●二日「考証学」

学問というものは先代研究に後代研究が積み重なり、次第に深くなって行くべきであるが、少なくとも現在の武術考証学の世界ではそうはなってはいない。また考証者のレベルが余りに落ちすぎてますます混迷に陥っているように思われる。そもそも考証態度が悪すぎ、マナー違反が酷い。特に目立つのが先代研究の上っ面を剽窃して自己の発見の如く得々として決めつけ強弁する者が多く真に不健康である。

管理人も拙いながらも武道考証学を長年やっているが先代学者の学識の足元にも及ばないというかなりの自信がある。ではそんな者に、何故に考証ができるのかと言われるかも知れないが、管理人の考証法は先代研究の本質を紹介しつつ新たな資料を積み重ね、現時点で出来る考察をなしているのであって、胡乱な結論を強弁する事は正しい態度ではないと考える。

考証学は奥深く、まだまだ分からない事が多く、象の一部を触っての思い込みは慎むべきであり、また大変にみっともないことである。

 

 

●先駆者
最初に井戸を掘る者は大変であり、学問の世界でも最初に暗闇に光を入れる先駆者の功績は偉大であり、顕彰、賛美すべきである。しかし考証学というものは真に深遠なる学問であり、先駆者が当時の研究段階における胡乱な著述や誤りを残す事も、ある程度致し方ないと思うのである。管理人自身も多くの胡乱な著述を残してしまっており、真に赤面の限りである。管理人の誤りは気づいた時に個人誌などを通じて出来るだけ訂正しているが、また別の研究者に誤りを指摘しても頂きたいと欲しいと思っている。
また先代研究の誤りも後の研究者が文献に照らしながら修正してゆけば良いのであって先駆者の業績は偉大であることは変わらない。
時代考証の世界において、三田村鳶魚翁から稲垣史生翁、そして名和弓雄先生等が切り開いた時代考証学の世界は真に立派であり、偉大な業績ではあるが、先行研究であるが故にある程度の疑問点も多く、また後代の物書きによって歪んで伝えられる事が多く、この点、現代においてかなりの混乱を招いていると感じられる。
実際原典資料も検証せず、先代研究者の著作を数冊読んで、その上っ面を撫でてそれを歪めて得々と強弁する者まであるのは真に情けなくも遺憾である。
例えばナンバ歩きなどは稲垣翁や名和先生などが紹介、解説され、またそれを踏まえて島津先生は、武術的な立場にて解釈、紹介されたが、それらの研究や公開、武術口伝承の本質を理解できずに随分と歪んだ論説が現代に横行しているのは如何なものかと思うのである。

また先代の研究は偉大だが先駆者であるだけにある程度の齟齬や胡乱な著述、勇み足があることは致し方ないと思う。例えば名和先生におかれても佐々木小次郎の長太刀の背負い方を右肩ではなく左肩が正しいと指摘されいるが、これも一論ではあり、厳密にいうならば少し胡乱な著述であると感じられる。吉川英治の原作に帰って考えると原作では正に長太刀であり、太刀造りであるからこそ右肩に柄を背負い、左手で鐺を引き分けることによって引き抜く表現であったわけである(これが最も素早く一瞬に抜ける方法であり、時代劇の表現としても優れていると思う)。勿論太刀でも左肩でも出来ないわけではないが(しかし左手が少し使いにくくなる)、右肩方式にもある程度の意味合いと正当性があるわけである。では打刀造りならば左肩が正しいかというと、打刀造りであるならば背中に背負う必要性が殆ど無くなるという矛盾がある。佐々木小次郎の刀は記録では三尺とも二尺七寸とも言われるが、三尺あまりの刀を腰に帯びる事が出来ないということ自体が侍としては一つと恥となりかねないと感じられる。忍者が刀を背中に背負うのは一つの時代劇表現として致し方ないとは思うが、これも実は背負う意味合いは余りなく、逆に忍び込むのには邪魔になるばかりであろう(これは正に名和先生が解説される通りである)。
現代の時代ドラマにはドラマなりの表現があり、それほど厳密な時代考証に拘る必要はないが、佐々木小次郎の長太刀を打刀で表現するのは必然性の立場からも如何なものかと思われたのである。なにせ原作は太刀造りであり、それを崩す必要性はないように感じられる。
また名和先生は座布団は比較的後世のものでまた武家社会では余り座布団を用いる事はなかったと述べられておられるが、これも一説、一論であって、勿論別の論と捉え方もあると思う。ただこの様な論の提出は大変に勉強になることであり、そこから後代の研究者は資料を尽くしてより深いを考証をなしてゆけばよいのである。
所が、これを額面どおり受け取り、また敷衍して古典武術に座布団技なしとする勇み足の記述が最近目立つようであり、これは少し遺憾である。
実際の所、座布団自体の歴史は極めて古く、特に昔は畳み生活ではなかったので敷物は結構工夫された。古くは蒲穂編んだ敷物があり、宮本武蔵も円座(わろうざ)を敷いている著名な図がある。また少し大きめの座布団とも言える茵(しとね)が古くから武家社会では用いられており、武士が敷いている絵図はかなり多く残っているのである。当時の座布団(茵)が少し大きめなのは当時の武士が正座オンリーではなく立膝座りが多かったからと解釈出来るのである。

現在の如くの少し小さめの座布団が出てきたのは(これは正座が定着したためかと思われる)江戸中期頃と言われ、これも勿論当時の絵図に多く描かれている。

ただ一説では座布団などは役者や芸者の用いるものとして(自堕落、柔弱に繋がるとして)武家は嫌ったという説もある。しかしこれもやはり一説、一論であり、武家社会の全論では決してないと考えられるのである。「辰巳芸者と侍は」として寒中でも足袋を履かない武士も確かに多くいたが、しかし武士が全て足袋を履かないかというと決してそんなことはない。文化というものは決して一元的ではなく、多次元に存在するのが実体であり、江戸期の実体をもっと立体的に捉える必要があるのであり、茵も含めて武士も勿論座布団を場合場合に応じて用いただろう。著名な近藤勇の写真には明確に座布団が写っている。磯又右衛門が座布団を用いて狂乱者の真剣攻撃を防いだ話しは著名である。明治初期の不遷流の絵図に綺麗に座布団を敷いている図が存在しているのである。
しかし名和先生は江戸期に足を掛けた長老がたの聞き書きを多く録られておりこれは極めて貴重な記録なのであり、大変に大きな業績であると思う。また島津先生も実際に先代からの膨大な口伝承と奥傳技法をその儘伝えられ、現代に示されておられるのであり、これらは大変に貴重な文化財であると言えるだろう。ただ勿論聞き書きや伝承技法にはある程度の歪みや後世の付加もありえるとは思うが、その分別はこれらなせば良いと思う。
これからの研究者は聞き書きや伝承技法を文書を通じて検証してゆけば良いわけであり、管理人も先代諸先生方の研究を糧に、またご教導を頂きつつ出来る部分のより深い所を少しでも窺ってゆきたいと思っているのである。

 

●4日「近代空手」
現代の所謂伝統派空手の稽古をみた。伝統派と言っても所詮は本土における伝統であり、本当の意味の古伝武術とは違い、やはり近代空手である。しかし何とか型の教えは残っている。しかしながら型競技の為の号令をかけた稽古法をみて、武術からスポーツへの変容を感じさせられる。しかしなによりも稽古の錬磨レベルが余りにも低いのは情けない限りである。大勢集まり、時間をかけながら稽古していない者、だらしない格好の者が多すぎる。
最後に稽古をビデオ撮りしておわりだった。最近は型分解が競技の眼目にもなった為か型分解がある程度行われていたが、武術解釈と云うより丸で殺陣である。

●勝口
殺陣はチャンバラ、まさにチャンチャンバラバラであり武術的な「勝口」観念が不明確である。新陰流で云う勝口と云う教えは正に武術に直結した理念であり、いや実は武術そのもの、武術の核心であるなのである。
今の武道と云うものは遊びの部分が多すぎ勝口の教えと観念が余りにも希薄であると感じられる。
中華の武術もに良い部分があり、推手的な稽古は日本武道では余り見られない極めて中華的な錬功法であるが、正にこれこそは武術の「勝口」部分を学ぶ優れた方法論であると感じれる。日本武道にも類似の方法論はあったが、既に方法論は失われ現在は何処でも殆ど行われていない。

●遊び
多くの合気道人と接して来たが、不思議な事に殆ど武術的なことに興味がなく、遊びの部分にばかり目が行く。
勝口部分こそが武術なのだが、この点を捉えていた合気道の古老も殆ど死に絶え、若い修行者は武術の方向に向かわないのは現代の病と云うべきか。

 

●「歪み」

長い研究の果てにそれまで信じていたものが間違っていると云う事に気付き愕然とする事がある。日本の古伝武術を探求して四十年が過ぎたが、現在の武道、古流武術も含めて確かに武道ではなかった。現代武道はいたしかたないが、古流武術の現状がまでがここまで歪めば正に武道ではない。しかし逆に日本武術の本質は想像以上に素晴らしく奥深いものであったことも紛れもない事実である。だがその理念としての素晴らしさと現状との落差を認知した時、手放しに現在の日本武道を賛美する事はできないだろう。ともあれこれからの方向性の選択も含めて先ず真実を知ることが必要であるとは思うのである。

 

●六日「殺人術」

真の武術。それは激烈な殺人術であり、一般化できるものでも大衆化できるものでも決してなかった。また真の兵法は集積された悪知恵の結晶であり、一般化されることは許される事でない。だから現代武道が武道ではないのは当たり前の事であり、それほど極上の古伝真法にそうそう簡単に出逢えるはずがないのである。自力で探求しても今の世では出逢うことはかなり難しい……殆ど不可能事に近いだろう。それは本物の幽霊に出逢う確率よりまだ低い。いや全方向的に正統な武術は既に存在しないのであるからそもそも最初から無理である。

ただ欠けた伝を繋いで正しいものに復元することは出来るかも知れない。これが最後の可能性であり、真の武術の各部品は何とか僅かながら散見すると云うのが現状だろう。

●怪我

大衆武道が恐るべき戦闘力を持ち得ない事はいたしかたい。全てはスポーツなのだから。護身の為のメソッドを一応教える系もあるが、古伝的な深い錬功の法がない以上は実際的には余り実用的ではないだろう。また商売武道である以上精神性も残念ながら望めない。ここまでは致し方ないが、最後の運動体育としての性能として、近代武道は練習法がラフすぎる。余りにも怪我が多く、体を痛め、晩年に苦しむ事となる。近代武道は残念ながら身心を養い、体を育てる基となる力は余りなく、逆に体を痛める働きがある。試合をしない系統の武道も実はしかりで怪我が多い。これは見せ物としての要素があるためである。

現代武道は競技か見せ物であり、それで良いと思うのであるならばそれはそれで結構であるとは思うが、怪我が多いことは指摘しなければならないことである。

 

●八日「陳腐」

昨晩は超評判のハリウッド映画の第一作をテレビ映画でみたが、全くつまらないの一語に尽きた。全く時間の無駄である。先般も別の評判のカンフーが出てくる映画の第一作を同じくテレビでみたが、これも全くつまらない。近年の邦画も全くつまらないと思うが、管理人は近代の映画全般を、自己の感性にあわないものを全てつまらないと言っているわけでない。邦画はともかく極近年までのハリウッド映画はそれなりのレベルがあったかと思うのである。『ターミネーター』『ランボー』『バック・トゥ・ザ・フューチャー』『ダイハード』だって特に好きと云うわけではないが楽しめる作品である。

しかし最近の作品は映像のレベルは高いとは思うが映画自体はつまらない。日本映画の『寅さんシリーズ』も他愛のない作品であると管理人は思うが昨晩の映画よりかなりましな気がする。映画も武道も近年急速につまらなくなっていると管理人は思うし、全く見る気にもなれず、後は双方ともひたすら古典を味わうのみである。

 

●12日「プアー」

いま銀座松阪屋でアンティーク時計展があり、それに大阪の澤田先生が和時計展として参加され、筆者も解説員としてささやかながらお手伝いをしている。デパートは閉店が夜八時まででそこから後片付けをなせば残りの時間帯で武道など来るものではない。一般勤め人が殆ど武道稽古など出来ないのは当然であるのかも知れない気がする。しかし仕事ばかりが人生でもあるまい。武道も出来ないと云うのは日本のサラリーマンは年収は別として何ともプアーと云うべきか。

●「復元」

二十年の昔、澤田先生から「日本の武道は維新の時点で一端終わったもの。後の我々は復元しているだけではないですか」と言われ、「確かにそういう面もありますね」と言葉をナヤシながら、心は「砲術関係はそうかもしれないけれども、他の柔術や剣術はまだまだ健在な流儀あり」と思ったが、しかし二十年経って、今の時点では確かにその通りかと思う。

伝統武道の振興? 精神文化の保持? 青少年の健全な育成? そんな夢見たいなこと云ったって伝統的古伝武術など既にどこにもないし、近代武道、古武道に関わらず精神性など薬にしたくとも既になく、全てはおぞましいばかりである。

今はどの武道団体ともつきあいたくはない。

●「有即無・無即有」

管理人は伝統武術など既にどこにも無いと述べた。その通りであると思うが、実は「無いけど有る」「有るけど無い」のである……!

「○○県の者ですが、当県に古武道はありますか」と電話で聞いてくる者がある。突然に名乗りもせず、聞いてくる事もまた異常であり、全く常識もなく困った事である。当会は古武道道場斡旋所ではないのだから。しかしそれを別としてもいずれにしても「無い」としか答えられない。そして「無い」とい言われて「そうですか」で終りである……!

しかし実は無いけど有るのである。そしてやはり有るけど無い……。「有り」と云う事は実は「無し」と云う事の奥にある。何故なら有るか無いかは実は客観的事実の中にはなく、全て受け取る側の問題である事が多いのだから。それの分からぬ者に何を言っても無駄な気がする……。

●「立場」

既に日本に真の武術、本当に古伝の伝統が無いと聞いてどう感じるかは微妙であり、立場もある。「優れた妙法を会得できない、残念」と思うか、「伝統武道が無くなる事は残念であり、何とか復興したり、次代に継承できないものか」と考えると立場は180度違うし天と地との差異があり、「有無」の論もその立場によってまた180度変わってくる。

 

●「こんな女に」
男を騙すことしか考えていない性悪女。既に女とも言えないかも知れず、余り関わりたくはない。しかし最初からそうであったのではなく、どの女性にも実は若く純粋な時代がなかったわけでもあるまい。「こんな女に誰がした……」
そしてどんな人間も全方向的に否定も出来ず、世に「イッセンダイ」がいると答えてしまったのは釈尊の最晩年の最高の齟齬であり、後世に迷いを残した残念な場面である。近代武道はおぞましき性悪女に等しであるが、それが本来の女性の本質ではなく、男女を越えてその奥に仏性ありと云うのがどの宗教においても(邪宗門でない限りは)究極の真理であろうかとは思う。しかしその仏性が開花するのは残念ながら今生では無理な場合が多く、管理人も近代武道からは出来るだけ接触しないように努めている……が色々しがらみもあり、中々思うに任せない。

 

●13日「癌検診」

調査によると毎年健康の為に癌検診をするのはよいがしかし何パーセントかは癌検診をする事によって発症するのだと云う。如何にもしかりで真実を知る事は必要であるが、知ることによって真実が変わる場合もある。これは不確定性原理の理論と同じである。あくまでデジタル的な「有無」の事実も立ち向かう人次第によって答えは違うかも知れない。

 

 

●14日「スポーツ」

極めて正直に書くが管理人はスポーツが嫌いである。人の好悪は各個人の問題であり、余人の成すことに関して文句を言う筋合いではなく、口を出そうとは思わないが、表現のと主張の自由と云う立場からいわせて頂いたのである。

●学校

極めて腹が立つのは学校でスポーツが教育に入っていく事であり、昔色々なやらされて頭にくる。

スポーツは遊びであり、堅気の人間のやることではないと考える。

 

●15日「旧友」

本日4年ぶりかに武道関係の旧友と再会した。友遠方より来るまた楽しからずや。

それはともかく、色々彼と話すが、結局どこにもまともな武術は既に日本には無いことが分かる。もう何処の武道家とも武道家としてのつきあいはしたくない。

 

●「お里」

今の武道は講習会を開いて、会費を取って、そこに武道雑誌の記者を呼んで、講習会中に写真を撮って、最後はビデオ撮りして、それを参加者に売り、また講習会ビデオとして雑誌記事と共に宣伝し、二重売り、三重売りして終りである。

 

●19日「大学空手」

大学空手部の稽古を見る事があってだらしない格好に天を仰ぐが、恐らく指導者がいないか、いても若くてちゃんとした武道をちゃんと稽古したことのないものだろう。

大学武道部もちゃんとした指導者がいるといないので全くちがう。ところがちゃんとした指導者は既に極めて僅少である。昨日は大学教授にして空手部の指導顧問の先生を別の仕事の関係で訪ねて、図らずも色々昔の空手の話を伺う事ができた。空手界で誰一人知らぬ者のいない正に大御所の先生である。

 

「今は皆練習と云うが昔は稽古で、練習と稽古は違う。稽古とは先達が到達した至高の武術極意を謙虚に学ぶ姿勢である……」

「試合ではなく、今は競技と云う言葉が使われ、本当に武道ではなくスポーツとなっている」

「型も競技の為の見栄えばかりのものとなってしまた」

「しかし剣道、柔道は型を殆ど捨てて単調なものとなったが、空手は型がある分、深く難しい……」

「空手は武道における、極めて根源的なもので、子供の喧嘩を見ても殴る蹴るから始まるように、確かに琉球に古伝して同地で中国の影響を受けながらも醸成したものでしょう」

「日本の剣術文化が育んだ武術極意とその言葉、文化はその儘空手にも当てはまるのです……」

本当にその通りだと思う。かくした真正の武術を知る武道家すら本当にいないようになってしまった。

 

●「人を失う」

「言うべからざるを言わば言を失い、言うべき事を言わざれば人を失う」……孔子の言葉であるが、真にしかりかと思うのである。世にあるのは無駄口ばかり。本当の言葉をはなつ人は本当に少ない。そして勿論管理人もしかりかと思うのである。

歳の所為か人を失いたくないと常に思うのだが、何故か逆の事をしてしまう……。

 

●23日「消去法」

どの様にして古伝武術文化を継承してゆくかが当会における最も大きな課題なのであるが、中々に難しい問題を含んでいる。昨晩、琉球拳法の師匠である西本先生から電話があり、一人くらい武道系から国会議員を輩出しなければ駄目だと発破をかけられたが、喧嘩ばかりしている今の武道界ではそれも難しい。それに何か的外れな事ばかりしそうな気がする。

教育に武道をもっと取り入れるべきと云う論もあり、これ自体は正論ではあるが、正しい武道を知らない者がいかに奮闘努力しても的外れになるばかりだろう。スポーツ武道が栄えても古伝武術は滅びるばかり。逆に言えば古伝武術に変わってスポーツ武道、スポーツが伸してきたからこそ真正の古伝武術が押しやられた気がする。

その意味から考えると教育に武道を入れる必要はなく、スポーツ的なものを入れる事を中止することによって逆に真正のものが現れてくると考えるのである。

 

●「代替え品」

人間と云う生物は運動体育文化がなければ体が崩れ死ぬしかないか弱い存在である(これは本当に死ぬのであり、もしくは半殺しの廃人になり、より悲惨な状態になる)。だから運動体育文化は人間に不可欠な存在であるが、運動体育文化と云う事に関して内容的にはスポーツと武道があり、運動体育と云う立場からはスポーツは武道の代替え品となりうる(完全には無理であるが大体の所)。代替え品が存在する為に武道文化の担い手が存在しなくなると云う構図があり、これが戦後の日本統治に米国が考えた方策であったのだろう。奸智恐るべしではあるが、易々と乗ってしまっている日本人が何とも情けない気がする。

 

●24日「地方」

昔は図版による通信教育の武道と云うものがあり、笑えるが、しかし武道文化のない地方では確かに必要な部分があったののかも知れない。しかし現在ではビデオがそれに替わり、地方ではビデオを利用して稽古している様な部分がある。それがいけないと云うわけではないが、ビデオを通して技術の崩れをその儘また中央に持ってくると云うが多くよって武道界が大分歪んできている様な部分がある様である。特に合氣系をひどく、ビデオをみて技術構造を勘違いしている部分を感じる。特に脱力系の合氣が流行しておりみるに耐えない部分がある。しかしその原点の一つとなった堀川幸道師範の合氣は現在のだらしない合氣とは全く異質のものなのである。脱力の部分はあったが現在の如くのだらしないものではなく、また脱力法も合氣の一部であり、本来の大東流の合氣はもっともっと古式の格調高い素晴らしいものなのである。しかし堀川系の合氣は余りビデオ公開される事なく、その弟子、孫弟子の技術が崩れて紹介され、それがまた崩れて地方修行者が崩して真似している構図がある様に感じられる。武蔵の古伝剣法の様な本物を味わっていないためにその崩れが分からずに演じられている。今の合氣界は混沌して余りにも歪みがある様に感じられるが、管理人が基本とする古式武術とは異質の世界であり、余り感知する必要も余りないだろう。

 

●「崩れ」

合氣系は管理人のホームグランドではない。ただ武蔵剣法もビデオによる伝の崩れが感じられ、遺憾である。現在色々な五法之太刀があり、大分混沌としていている。師伝系の殆どない五法も地方では大分行われているようである。ともあれ武蔵剣法は肥後伝のみならず、他系に残った勢法も総合的に見てゆく必要があるだろう。

 

●28日「誹り」
遂に一つの当然の審判が下ったが、ぶら下がるまでまだまだ時間が掛かりそうである。人の心の奥にある妬みや恨み、悪心を制御せずに育ててれば最後に向かうのが十三階段と云うことであり、宗教家、武道家に限らず戒めねばならぬことかと思うのである。その最初の現れが妬みを因とした人への誹りだろう。その行き着く先は恐るべし。


「口を開けば妬みあり
筆を握れば誹りあり
友を諫めて泣かせても
猶ゆくべきは絞首台」

 

●「神秘主義」
ある武道系の人脈は神秘好きの者が結構多く全く困ったものである。ただ管理人は世に神秘がないとは思わない。ただ求める方向性を間違えると逆に神秘から遠ざかると云う超絶的な矛盾と逆説の中に(もしくは裏に)実は神秘は存在するのだ云うことを知らねばならぬ。感性と云う問題もあるが、物事はとにかく理性的に考え、その果てに神秘があるのでなければ意味はない。マジックはどんなに神秘に見えてもマジックであり、その裏の事実は知るべきだろうし、気功や整体などに過大な期待をしても伝統も何もないものに大した効能があるとは思えない。
しかし真の神秘はそれらの装飾的、商業的な似非文化の外にある事を知らねばならぬ。

 

●「神秘のありか」
真の神秘は日本が長い年月掛かって醸成した伝統の奥、いや奥の奥の奥にある。有象無象が触れることが出来ないように七つの罠を仕掛け、二重三重の封印を施し森の中に木を隠した。しかして如何にも神秘装飾を施した見せかけの宝を方向違いの場所に飾って見せたのである。常識のある、普通者はそんな見せかけ似非宝に引っかかる筈がないと思われるのだが、これが中々に效果的で殆どがそれに目が行き、真の深い世界は気づかれることはなく、真の秘法は護られることになるわけである。

 

●「縁」
伝統と言っても作られた伝統では意味がない。真の伝統的な深い文化。最低限その判別の出来る知識と感性は必要であるが、実はそれだけでは足りず、そこに縁がないと深い世界には入れない。しかし実はそこも神秘の神秘たる由縁であり、縁を司る高い世界も確かに存在することも事実である。

 

●29日「見せ物」
武術は見せるものではないが、大衆アピールの為のケレンを含むものもないとはいえないし、現代武道は特にしかりだろう。中華武術では表演系と実戦派は分かれていると云う。日本では表演系は「棒の手」と云うようなまた独特の文化に醸成したが、現代武道は見せる要素がとにかく多くなっている。管理人は見せ物武術も全く実戦に役に立たないとは言わない。体の錬磨と云う点では同じであるし、また表演系の修行者の方が錬磨度が高く、身体能力の高いものが多いかも知れない。表演は表演として実戦では実戦技に転化して使うことも出来ないわけではないのだから。
ただ問題は錬磨の方法論と目的には差異があり、最大の問題点は表演系は体の深層を錬磨するメソッドは余りなく、外面的な錬磨に終始し、一時的には優れているが、トータル的に見ると体を育てると云うよりも体を壊す危険があることである。現代武道は即物的な強さや見せかけの体動を求める。それがいけないと云うわけではないが、長い目で見ると体を壊す危険は想像以上に大きいのである。人の体と命は惜しみいたわって、しかしてじっくりと練って鍛えて行かねばならないのである。この問題があるからこそ現代武道の有り様に問題ありと管理人は何度も指摘してきたのである。武術は体を養い育てるものであって、壊すものではないのだと。


                                  

 

 

 

 

 

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