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●[16・1・14]義経と玄信

ある武蔵研究サイトをみてみると宮本武蔵守義経(義軽、義恆とも読めるがややこしいの義経で通す)と新免武蔵玄信を別人として捉えているところがある。丁度筆者も年末から各『兵道鏡』の筆跡に就いて色々みて、直筆かどうかを検討していた所であり、この点は重要な点なので検討してみたいと思う。現在の研究では大体同一人物としてとられられており、義経は武蔵の若いころの諱という結論である。

このテーゼを最初に考証したのは綿谷翁であったかと思う。先ず綿谷翁の研究をみてみよう……。

 

●[16・1・19]表
綿谷翁の論から述べようと思ったが、机上の研究より、久しぶりに管理人の足の方が先走りしたので考証順序を変えよう。

問題は『兵道鏡』呼ばれる伝書のバージョンの種類である。これは武蔵が最後の力を振り絞って書き残した『兵法三十五ヶ條』『五輪書』などは事情が違い、武術伝書としていくつの種類がでており、実際問題、どのようなものが現存しているのかが問題なのである。
先ずは上げてみよう。

 

@竜野多田家傳『兵道鏡』
A高知図書館蔵『兵道鏡』
B森田家蔵『兵道鏡』
C牧堂文庫所蔵『兵道鏡』
D国会図書館蔵『剣術巻』
E藤田家旧蔵伝書

 

武蔵資料としては比較的残っている系統の伝書と言えるのであるが、少し困ったことがある。というのは、これらの内で宮本武蔵守義経のサインがあり、宛て名書きがあるのは何と@のみだということなのである。ところがこれは非常に困った事に現在行方不明である。

ただこの写し、周辺資料を含めて多田家伝書には別に数点のものがあり、それは現在龍野市立歴史文化資料館に寄贈されている。残念ながら@そのものはないようであるが、それに極めて近い資料郡があるらしいのである。らしいというのは調べる為に一週間の時間を取って実家に帰り、何度でも訪れるつもりで資料館に足を運んだが、色々な障害から残念ながらこれらを閲覧することも出来なかった為である(また機会を作って調査したい)。
ただ訪れて得ることの出来た所蔵表には@は含まれておらず、やはりどこかに私蔵されいるらしいのである。その他は殆ど宛て名もない。

ただCのみが宛て名ありであるが、発行者は宮本角平であり、武蔵から一代ずれてしまっている。
ということは、このうち武蔵の直筆の可能性があるのは@ABEである。しかし可能性があっといって確定には筆跡鑑定が必須である。とはいうものの、この筆跡鑑定というものは管理人には少し荷が重く、検証には少し時間を頂きたいと思うのである。
よって、この問題とは少し違う、別角度から『兵道鏡』というものを考察してみよう……。

 

●「慶長十年」

思うに『兵道鏡』は大変にレベルの高い資料で技法テキストとしてはある意味では『兵法三十五ヶ條』『五輪書』よりもレベルの高い部分があるのである。最初に発行されたのは慶長十年ではないかと思われるが、当時これだけの伝書は珍しく、もし玄信武蔵以外の者が発行していたとしたらこれは大変な事であり、この時代に玄信武蔵以上の天才剣士がいたこととなる。年代的に武蔵の売り出し中の期間であり、同名を名乗る偽物が出ても不思議ではないが、偽物がこれだけの伝書を発行することは難しく、それだけの天才であるならば名前を追従する必要はないだろう。

ただ伝書自体が後世の作成という事になると勿論話しは違ってくる。ここまでくるとその判定に筆跡鑑定の必要が出てくるが、その仕事を先送りにしている。

内容的に考えると先ず@多田家『兵道鏡』には年代記載があり、著名、宛て名書きがある。(花押、落款に就いてはまた資料の揃ったところで考察したい)

となると後世伝書とは考えにくいのである。写しの可能性はあるが、原本は確かに存在したように思える。

その本質を考えた時、後世に真似して作成しても別に構わないと思うが、それが年代や宛て名まで創作するということはこれは偽作となる。後世にその様なものを偽作する必要性があるとは少し考えにくい? 色々な可能性もあるとは思うが幾つかの種類が存在するという問題もあり、これは誰かがある時期に偽作したものを何人かが真似したという事であるのだろうか? しかし伝書類を見てゆくと内容的に変化や進歩も見られ、単一資料の写しとは考えにくく、またその様なものを作成する必然性が思い当たらない。

また同伝書を否定すると武蔵が青年期に門人に発行した伝書が存在しなくなる。武蔵が青年期から既に多くの門人を要していたことは伝記資料より間違いないと考えられるのである。当時における確かに玄信と名乗った資料はないのではあるから確かに当時「義経」を名乗っていたのだろう。願わくば当時「義経」を用いた書簡などが残っていればよいのだが未だ発見されていない。

そして『兵道鏡』はサイン、花押、落款、宛て名の完備したものが極めて少ないという大きな問題がある。

ここまでくると次にはいよいよ筆跡鑑定の世界に入って行かねばならないのが管理人自身の能力とそれにサンプルが少ないという問題がある……。

 

  宮本武蔵修練之地の碑
圓光寺内にある
  圓光寺
宮本武蔵修練の地と言われる竜野。武蔵は竜野圓光寺に滞在し、住職の多田氏や落合某に圓明流を伝授したと云う。 多田家に多くの武蔵系資料が残った。現在竜野歴史資料館に納められている。 問題は滞在の時期だろう。巌流島の決闘の前なのか後なのか。その期間を含めて...
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