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●1日「天国と地獄」
商業は管理人の全く専門ではないが、世の営みは悉くが商業が絡む。そして商業こそが世を天国にも地獄にも帰る大きな力を秘めているのだと思う。つまり良い商いと悪徳商業が存在する。良い商いこそが真正の商業であるが、そのような正しい商業は現世では殆ど払拭し、ますます世を住みづらくしているのだと思う。

現世とは正に自己の口に入れる事の出来ない長いナイフとホークをもった客たちがつく丸い食卓である。他人の口には入れる事が出来るのであり、お互いに入れあえば御馳走は十分にあり、正に楽しい食卓となるのだが、そのルールとマナーが護れず御馳走を前に誰も食にありつく事が出来ないと云う正にこの世の地獄となる。これは古い何とも陳腐な譬え話ではあるが、確かにその通りだと思う。そのルールとマナーを指導するのが商業の役割といえるのだがそのような正しい商いが本当に少ないのは遺憾である。

●「真の商い」
「働くとはハタをラクにする事」真にしかり。

「お金とは人ニハ心棒が第一と書く」真にしかり。

しかし「商いとは仕事をしてアキナイ事」と人は云うが、人を騙してやめられないと云うのでは少し困る。管理人は「商いとはアキをナイようにする事」だと思うのである。「アキをナクする」とは無駄をなくすと云う事。マンションでも人は入らなければ家賃収入も無くなるし、住居を求める者も適当な住居を利用出来なくて夜露を凌げない。
空いた部屋を紹介してやる働きこそが正しい商業であり、そこにある程度の利益還元のあることはそれなりに結構かと思うのである。その額のタカは少し問題ではあるがけれども。
そして無駄をなくすと云う努力が企業努力であり、真の商業の働きである。それの出来ない企業は潰れてゆくのは当然である。
単に売るためだけの販売員も無駄のない仕事のある職場ならばむべなるかな。しかしひたすら少ない客を待つだけのアンコウ販売員は大いに無駄に感じられるし、この様な例は結構多い。もっと販売員と製品を作る職人とは歩み寄り、出来れば合致する事が望ましい。遣りようによっては出来る場合徒職種もあると思う。
そこまで出来ない職種もあるが、少なくとも販売員は売る商品の品質の専門家であるべきであり、売ることの専門家であると云うのでは余りにも情けないと思う。

 

●2日「老熟」
人間国宝であられた肥後象嵌鍔師の米光光正師の作品群を見ると驚いた事に八十歳くらいから一段超えた高いレベルの作品を残しており、亡くなられる九十三歳くらいまで十何年かにピークの作品を創造している。管理人は人間国宝の技など所詮大したことなく、看板倒れの者が多いと云う感を大体は抱いているのであるが、光正師はうれしい例外と感じられた。日本の芸術と云うもの、その道を歩む者はかくあれかし、本来かくあるべしと思うが、今の日本武道界で至れる者がいるかどうかは極めて難しい。今の武道形態では殆ど不可能だろう。……が、他の者のことは云わず、己自身がそれに近づくために努力たいと思うのである。

 

●5日「疑問と反省」
現代武道と伝統古式武術とは微妙な関係にある。真の武術は一般化できず、しかしやるものがいなければ滅びるしかない。現代武道は入りやすいが所詮大衆化武道であり、正しい武術技法や深い精神性は期待できないだろう。しかし此処で疑問に感じて深い古伝武術の世界に入れば良いのである……。しかし中々のその様な理想的な方向に向かうことが少ないのが遺憾である。何故なら武道と云うものは一つの宗教であると云うということかと思う。ここに魔道がある。
思うに他系武道も含めて昔の稽古仲間の記憶を辿って思い起こすと、合気系武道は試合なく、かなり思い込みの世界で、人を強くなったと思わせる働きはあるが、実際の所は難しく、自己が他の武道をやっている友人などと技を試したりして全く通じないので愕然とする事になる。
此処で道が分かれ、反省して他の武道も真面目に探求する気になる者と、ますます内にこもり、他の武道との接触をさけ、自己の世界に入って行く者とにわかれる。他の武道を探求する者があっても、その選択が同系の武道(主に合気系武道)のみを追及するようになる。
後者のような例がみてきて殆どであるように感じられる。ここに袋小路の魔道が形成され陥っている者が多いのである。真実を知ることは怖い部分もあり、それはそれで幸せな事かも知れない。
●「居合の変容」
他の武道の選択において、合気と同じく試合のない居合などを学ぶ者もあるが、残念ながら居合の世界は明治以降歪んでしまい、古典的な体系を保持する居合流儀は殆ど現存しておらず、出逢う事が出来ないようになっている。杖術は古典が残ったが、一般の学びはそこまでは中々に行かず、制定形で終りである。

●「歪みの奥」
居合も杖道もすっかりと歪んでしまったが、歪みには歪みの原因、意図的に歪めたにしてもその理由がある。真の武術の周辺にはやはり一線を引き、ある程度の布を被せねばならないのは当然だろう。幕の奥に入るかどうかは本人の自覚の問題であろう。
杖術においては幕の奥に未だ真の武術(古典)は存在する。
ただ居合においては既に殆ど消滅していると判定する者であり、この点は遺憾である。
●「杖と棒」
杖術はベールが被さっている云うものの、何とか(何とか何とか少なくとも技法の部分のみは)古典は残り、心を凝らせば奥に入って行く事も出来るだろう。
神道夢想流と云う杖術の名門が綺麗な体系で現存したのは慶賀すべきことである。
ただ日本武術の基盤と云う立場においては、六尺棒系の古典が殆ど残らなかったのが極めて残念であると思う。
現在日本で正統な六尺棒術を伝える系は極めて僅少であり、一般人が出逢う事は極めて難しい。これが残れば日本武術のレベルを一挙に高める大きな底力となったであろうにそれが遺憾である。

●「武蔵の棒術」
宮本武蔵が六尺棒術を使えたかどうかは微妙である。記録では六尺棒で戦った記録が一点あり、また宮本家は竹内流との関わりが強く、竹内流系の六尺棒に触れる機会は多いはずであり、かなり修練していたと見るのが妥当である。しかし無二斎資料にしても武蔵傳武術にしても棒術傳は顕れていない。現在山東派系で伝承されている武蔵流棒は本来塩田流の棒である。しかし武蔵も六尺棒の重要性を認めて併伝されたように感じられる。
演武を何度か拝見したが、中々に格調高い棒術形であり、貴重な存在であると感じられた。いま少し伝授系が広がればよいと思うのであるが。因みに当会では無双直伝流の中の坂橋流棒術と、武州氣樂流で伝わった棒術を中心に稽古している。

 

●「試合勢法」
武蔵の時代でどこまで竹刀稽古が行われていたかは不詳であるが、防具はさほど用いられていない時代である(小手防具や面撥などがなかったとはいえない)。竹刀稽古技術はそれほど研究されていなかったかと思うが、自己のレベルを高める為には撃剣法も重要な修行法である。試合技術については管理人の武蔵剣法の師である小松先生も、秋満先生もかなり研究しておられ、ある程度の教えを頂いた。後に荒関先生からも試合勢法型の手解きを僅かながら頂き、後で型手順の手書き資料を頂き私信にてのご指導を頂いた。その中で試合勢法形の工夫も促され、荒関先生の制定された試合勢法形を基盤に所作、趣など多少の工夫を管理人なりに加味して自己の試合形を制定し、現在かたり錬磨している。稽古した技術は竹下先生などと実際に稽古して探求し、その成果を含めて試合勢法形の裏表を定め、現在稽古している。ただ防具試合までは道具や稽古人の問題があり中々定期的には出来ないでいる。いま少し二刀剣法の撃剣法の技術を探求し、その錬磨法も含めて時間を掛けて体系化したいと思っている。

●「工夫」
試合勢法は荒関先生の制定形を基盤にしているが、管理人の工夫を加えた独自のものである。と言って手順は荒関先生の形と殆ど変わらない。
しかし長く稽古を続けて見ると不満な部分が出てくる。実際の荒関先生の形や動きをみれば判明すると思われるが、中々にそうも行かず、自己の考えで工夫をなしたものである。不自然と思われる構えの部分を少し変え、所作の中に古伝の錬功法を内蔵し、気合の掛け方のタイミングなども少し変えている。また荒関先生の制定された形には形名称がなかったので形にそれぞれ名称付けなし稽古しやすくしたものである。裏形も定めて全て名称付けをなし、全体的に三十数本の体系としている。これは管理人の工夫の部分なので、名称付けの変化も含めて撃剣法で実験しながらこれからも多少の変化があるかも知れない。しかし古伝の撃剣技法とはどのようなものであったのか。資料を見ながら探ってゆくのも興味深い所である。

 

●7日「オリジナル」
武蔵は刀装にも優れた作品を残したが、京の金工細工師の技術は超絶的であり、余り細密な金銀作為までこなしたわけではなく、自分の出来る技術の範囲で製作したようである。それだけに従来の伝統に囚われない新たなるオリジナル芸術作品を残せたともいえると思う。
管理人も現在刀装に凝り、柄巻から作鍔、鞘塗りを含め大体オリジナルで仕事をこなしている。現在目貫のみは既製品を用いているが、他は大体オリジナルである。目貫も自己のデザインのものを今製作しようとしている(近々そこまで出来るのではないかと思っている)。しかし江戸期の刀装技術は確かに超絶的であり、伝統を重んじた素晴らしいもので素人が追従できるものではない。よって管理人も余り伝統に囚われず、出来る範囲で、模倣ではない新たなデザインと新たな手法の工作で各工作をこなしている。
鍔、切羽、栗形、返角、鐺、縁、頭、鞘塗り、全てオリジナルで自作しており、中々に面白い。既製品は目貫とシトドメ、下緒くらいか。
●「ブレーク」
今は模擬刀製作がブレークしているようで結構な事である。技術が上がり、またインターネットショップのお蔭で中々良いものがこなれた値段でオリジナル製作出来るようになってきた所為だろうか。しかし良くみていると未だ妥当ではない値段の付け方も多く、いま少し是正して行く必要があるように思われる。技術的な手間には正当な報酬は当然だが大量生産品を単に廻して多くの利潤を得ようとする部分が多く問題だろう。しかしそれも自然に淘汰されると信じたい。
●「不思議な伝統」
新たなオリジナル作品と言っても伝統を余り壊すのは宜しくない。ただある意味では伝統に囚われないことが刀装の伝統ともいえるのである。つまり江戸期の文化とは決して画一化した大量生産文化ではなく、各個性を重んじた様々な文化物を創造しており、刀装もオリジナルを重んじある意味ではそれぞれ独自の存在なのである。殿中差しのみはある程度の規制がなされたが、それでも金具の製作は規制があると云うものの、その中でやはり独自のものが作られた。
●「作鍔」
鍔の製作も面白い。色々なアイデアのものをデザインし、工作して行くのが面白い。三寸空間に色々な遊びが出来るものである。写実的な象嵌などは素人の入れる世界ではないが、幾何学模様、もしくはラフなデザインであるならばある程度は出来、色々工夫できる空間である。

 

●「居合は古武道」
林崎氏が編み出した居合術が江戸期においてブレークし、各剣術流儀の中にも取り入れられ、多くの流儀が居合技術を伝えている。しかし林崎居合と云うものは江戸期においても既に古武道であったと考えられる。戦国期と江戸期では刀の造りも長さも違うし、服装、座り方も違うのであり、その齟齬によって居合術はやや歪んだ形になり、明治以降は全く誤解と曲解で解釈が出鱈目になっていったと思われる。
江戸期における剣術稽古は木刀でなされたが、真剣を用いる居合術は武士たちの骨董趣味に合致し、楽しい文化としても行われたと思われるのである。居合の深い世界に入るには高い教養が必要であり、日本武術の最高形態を持つ深い文化である。
●「武蔵と甚助」
武蔵は居合術もある程度使えただろうか。兵法の傳としては残っていないようである。別系脈の武蔵流には居合の心得を説いたものがあるが、実際居合形があったは分からない。二刀遣いの立場と少し矛盾するのかも知れない。しかし年代と人脈的にはかなり近いものがあり、触れる機会はあったかと思う。美作新免家に竹内久盛が仕えており、久盛の弟の伯耆守は林崎氏の高弟で居合の達人である。
●「感性」
どんな仕事も優れた感性が必要であり、それがなければクリエーティブな仕事は無理で会社でも出世は難しいだろう。感性を養うには文化の深い部分に入る必要がある。居合と云うものは高い文化と高尚な什器の趣味を内蔵するもので稽古道具も出来るだけ優れた道具を用いるのがよい。ある程度リッチな文化ともいえるが必ずしもアト物のみの話しではなく、自己の出来る範囲で良いものを選択して行くべきだろう。優れた什器に触れて感性を養い日本武術の深い世界に入ってゆくのが良いが、今の居合道をみてみるとその様な者はめっきり少なくなったと感じられる。
●「拘り」
昔の稽古人は自己の用いる道具には随分拘ったもので、色々工夫や工作をなしている。今は既製品の道具を買って終りであり、真に情けない。そして武道具店もいま少し良いものを製作して頂きたいと思う。管理人も持っており、ある程度利用もしたが、ビニール製鞘木刀はなんとも物足りない(ただ稽古は出来るから最初に購入する事は結構かと思われるのだが)。

 

●25日「別物」
最近また新たな居合道の本が出て早速購入してみたが、感じるに古伝の居合術と居合道は全く別物と云う感がますます強くなる。レベルの高低は別としても全く間違った記述が延々と続くのには閉口する。現代居合道は確かに古流武術ではない。古武道でもない。近代空手が琉球唐手ではないのと同じく、合気道が伝統武道ではないのと同じく、古武道と言われる物にも問題があると感じられる。

●「間違い」
最近の居合道の著作は全く間違いだらけの著述が目立つ。
「林崎居合は太刀居合」……勿論間違いである。
「長谷川英信が打刀居合に」……間違いである。
「英信流は縦納刀」……英信流は縦納刀であって縦納刀でなく、横納刀でもなく、言わば横縦納刀といえるがここに流儀の秘密があり、古伝の納刀法を殆ど見受けられなくなった。ただ実伝としては古い師範の中には少しであるが出来る師範が未だいる。ただ口伝伝達がなされていない為に次代に伝が移らないのだろう。

 

●「講習会のお知らせ」
来月5月16日曜日14時〜17時に埼玉鶴瀬(東上線)の祖父江道場にて「合氣柔術講習会第三回」を行います。内容は再び「合氣之術」をテーマにいま少し深い部分をやってみたいと思います。合気系柔術を学ぶ方、また空手系を学ぶ方も参考になると思いますので参加希望される方は電話で申し込んでください。
会費は3000円です。

 

●26日「刀剣趣味」
武蔵は「エコの道具も持たず」と最後に獨行道に言い残したがその実、特に刀剣に関しては物凄いものを使っていたらしい。安綱や正宗、兼重など最高の刀を使っていたのである(正宗においては異論あり)。刀剣に対する執着は凄いものがあっただろう。そして色々な鍔師との関わりを含めて各誌に管理人は連載的にかなり考証してきたが、その強引な論説に閉口された方も多いだろう。しかし事実は小説よりも奇なりと云うこともある。信家鍔、金家鍔との関わりを含めて、平田道仁や長曽禰虎徹などとの関係も管理人は疑っている。そんな馬鹿なと言われる向きもあろうかと思うが、平田無二との驚くべき符合があり、また虎徹は和泉守兼重の門人と云うのが定説なのである。
ならば関係のないはずがないではなかろうか。世の中は全く意外な事が多いものである。

 

●二十八日「手作り」
世に大量生産品が溢れるがそれもまたリッチな生活とは言われない。またそれらの製品も間に入った業者たちによって多くのマージンを取られてかなりの厳しい価格設定にて今まで世が動いてきたように思われる(今でも)。それがインターネットの情報開示の傾向も含めてかなり透明化し、それぞれかなり適正価格と云うものが(部分的にではあるが)出来つつあるようにも感じられる。基本生活はそれらに任せ、ただ刀剣のみは自己のオリジナルの良いものを持ちたいと思う。その意味も含めて刀剣工作におけるいろいろな特殊な技術にも挑戦したいと思っている。今の課題はオリジナルの目貫作りに加え、板金打ち出しの鮫皮であり、工作中である。蛇腹巻などの変わり巻、また色々な鞘装飾の技術も研究してゆきたい。オリジナルの鍔も色々構想があり、徐々に実現してゆくことは楽しい事である。

 

●「専門化」
それぞれの技術の会得法を分析、専門化する事によってそれぞれ高いレベルの技術を保持できる……。いやそれが必ずしもそうはならない、寧ろ逆の事が多いから面白いとはいえるのである。伝統法に従えばほぼ間違いないはずであるが、伝統を外れて偏った鍛練法をなすから高い総合力に到達できないのだと思う。武道は力と技との相剋であり、また氣の攻防でもある。力は必要だが分断的に鍛えるべきではなく、氣の鍛練は個別に取り出すことが出来ないと云うのが本当である。筋力のみを鍛えれば力と技との総合力は逆に低くなる。氣の鍛練の為の気功を抽出して鍛えても逆に本当の氣の力が出なくなる。それは体と肉とは二つのものではなく、身と心、氣は本来一如であるからなのである。

●「桶」
身体の内蔵する力は氣も含めて総合力にて対外に発せられる。しかもそれはプラス計算でなされるのでなく、桶に溜めたる水の量の譬えとなる。力や氣、技、各様々な要素は桶の構成要素たる各側面板の長さに等し。一つでも短い板があるならばその桶が溜めれる水の量もその長さに従うだろう。

●「却下」
氣……この不確定なものを鍛練する方法を抽出する事がそもそも出来るかどうかが問題であり、出来たつもりが逆に遠回りになっているのではないかと疑るべきだろう。そんなものは抽出しなくとも実は伝統法の中に最高の方法論が内蔵されていると云うこと、また抽出した時点で全命喪失する不思議な存在である事を知らねばならない。
青いサトリは却下にあり。デントウと云う丈夫な繊維で編まれた古籠にちゃんと囀っている。

●「計算」
管理人の言っている事は極めて当たり前の事であり、計算すれば簡単に答えはでるが、それが分からぬ者が余りにも多いのは不思議である。稽古の半分の時間が理論と氣功法と云う不思議な武道講習会もあるが、同じ時間を伝統的な稽古に費した方が能率が良いだろう。氣の鍛練法も深い術理も伝統の中に最初からちゃんと存在しているのだから。





 

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