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名鐔師「信家」の秘密 その8 「宮本兵法山脈」 前回までで『鐔聖金家』における金家論の検討を成した。何とか上森説を覆すに足りる論考ではなかったのではないかと思う。 そして正に状況証拠的には名人鐔師大金家は天下の剣豪、宮本武蔵の門人、青木城右衛門金家(城右衛門は別人との説あり)と云う事になる。吉川英治の小説に播州小笠原家の家臣、青木丹左衛門と武蔵の第一の門弟となった丹左衛門の実子、城太郎が出てくるが、これらのキャラクターは実在の青木城右衛門の影法師であったかとみることが出来るだろう。 筆者は鉄人十手流の資料は武蔵研究者としてかなり探求し、新出発見の資料をかなり提示しながら兵法家としての本質を明らかにし、そこから宮本家兵法の真実までを明らめてきた。そして武蔵や鉄人、そして宮本兵法周辺の兵法系脈を探る内、近畿から中国地方、関東、そして全国に至るまで、それぞれ細糸で繋がる巨大な宮本兵法山脈と云うものを感知し、その文化世界を資料を尽くして紹介してきたわけである。そこには別系兵法や金工系脈を含めた様々な驚くべき交差と影響が見られ極めて興味深い世界なのである。 宮本兵法を伝えた宮本無二斎は古伝義経兵法の継承者であり、美作新免家の家臣でもあったが、同家には日下捕手術開山、竹内久盛があり、同僚として兵法も交流稽古もなされたと見られる。実際宮本家の中には竹内流捕手とかなり符合する捕手や小具足、縄などの伝が存在し、それが無二斎の門人である和介田卜斎に伝えられ、無双流捕手として関東に伝えられた。その他、芸州の難波一甫や夏原八太夫などを通じて制剛流や無双直伝英信流などが成立し、また竹内久盛の弟である片山伯耆守との関連で林崎居合術とも接触があっただろう。最終的には無二斎の兵法は筑州に伝えられ、現在の一角流十手術にまで通じている。 また無二斎の高弟に水田無右衛門があり、水田氏直筆伝書には無二斎十手の図が現れておりこの系脈によっても宮本家が秘伝してきた十手造りの鍛冶技術が伝えられただろう。正に兵法の継承は技術ばかりの事ばかりではなく、武器作りの秘術も同時に伝えられたと考えられるのである。その様な流れの中から武蔵は海鼠鐔を造り、青木鉄人は絵風鐔と云う鐔芸術史上に新たな世界を開いたわけである。また武蔵は晩年近くに尾張に長く滞在し、尾張柳生家とも対峙し、柳生家の当主、柳生兵庫助と深く交流している。筆者はこの時点で両家の驚くべき秘法披見と交換が行われていたのではないかと考察する者であるが実際尾張新陰流には武蔵伝の二刀勢法が新陰流秘伝の一端として現在まで継承されているのである。そしてまた武蔵の影響を受けたのか兵庫助の嫡子連也斎は兵法の為の刀装までの研究をなし、柳生拵えを考案したとう妖しい事実がある。連也斎は鐔までも設計製作を行い、それが柳生鐔という独特の世界を構築しているのである。武蔵の海鼠鐔が武蔵兵法の究極極意「空」を顕しているのだとすれば、柳生鐔は新陰流の様々な極意と秘伝を様々な意匠で表現した(この点に関しては飯田一雄先生が昨年の本紙において柳生鐔の解説を連載でなされいる。●●号〜●●号)。 ただ宮本家が伝えた備前、美作伝の鉄鍛練の秘法は直接には柳生家には遂に伝えられなかっただろう。金家鐔などと柳生鐔ではかなり鉄味が違うからである。しかしそれにしても美作宮本家で育まれた秘法が無二斎や武蔵を通じて様々な系脈に巨大な影響を与えたことは事実である。そしてそれらの流れをより深く見つめるといま一つ、兵法系と鐔金工系との驚くべき交差点があるのではないかと考えるのである。次回を期して考証してゆこう。 [続]
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