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 決闘者、宮本武蔵の剣法の真実
−−宮本家古伝二刀剣法の秘密

虚像と実像
昭和十年から十四年にかけて朝日新聞に連載された吉川英治の時代大衆小説『宮本武蔵』は当時非常な好評を博し、三百年以上昔に生きた実在の剣豪の名を人口に膾炙させ、以後そのイメージを決定つける事となる。
高々小説上の事ではあるが、実際の所、現代の一般大衆が抱く武蔵のイメージの基本は正に吉川武蔵なのではないかと思うのである。武術と云うマイナーな文化に於ける過去世の人物、偉人像を紹介した事で同小説は大きな功績を果たしたが小説は小説であるから基本的にフィクションであり、実像とは色々な相違が有ることは当然である。ただ時代小説における舞台、背景にはある程度の正しい時代考証は必要であると思うし、また歴史的な大きな誤りは一般人においても認識しておいて頂きたいとは思うのである。よってこれから吉川武蔵の根源的な誤りを武術と云う立場から考証して行くことにしょう。

武術文化
吉川英治作『宮本武蔵』を一読して先ず最初に残念に思うことは当時(江戸最初期)における日本の武術文化のレベルの高さ、そして実際に行われていた形教傳を基盤とした真に超絶的な格式高い稽古法を作者自身が殆ど理解なきまま著作されている事である。
小説の舞台となった時代には新陰流や一刀流は既に登場していたし、香取鹿島の古伝剣法も文書化が始まっていた。その他戦国武士の生き残りにして、また後に発展してゆく日本流儀武術各流派の鼻祖とも言える無数の剣豪、剣聖、名人達人たちが各地で犇めきあっていたわけである。かく達人たちが開いた各流はそれぞれ皆極めて高い技術と術理、哲理を保有したていたことは間違いなく、その様な層の厚い剣術界に「無師独覚」の野人が入り込める余地など殆どあり得ないのである。そしてそもそも当時の武術稽古法についてもかなりの誤解があるように思われる。
例えば原典に佐々木小次郎の稽古風景における次のような描写がある。
「『枇杷の木で打たれると、骨まで腐ると申すから、それを覚悟でかかって来い。−−さっ、次の者、来ないか』…(中略)…稽古初めをしてから三回目だが、半瓦の家には一人の片輪と、四、五人の怪我人が出来て、奥で唸って寝ている……」
これは小次郎を悪役にする為の演出の為でもあろうが、当時の武術稽古は真に厳粛にして格調高い型稽古を基盤としてなされていたのであり、此処で描かれているような無法にして乱暴なものでは決してなかったはずである。

修行
ともあれ吉川武蔵における最初の誤りは主人公の武蔵が正統な剣法を殆ど学んだ事がなく独学の剣法であると云う立場をとっており、これが先ず問題なのである。
吉川氏は武蔵剣法、その修行過程と云うものをどう捉えていたのだろうか。原典に当たって抽出してみよう。
「−−幼少の時、父について十手術を習いました。それ以後は村へ来る兵法者について、誰彼となく、道を問い、十七歳にして、故郷を出、十八、十九、二十の三ヵ年は故あって学問にのみ心をゆだね、去年一年はただ独り山に籠もって、樹木や山霊を師として勉強いたしました。さらば自分にはまだこれという師もなく流派もありません……」
「……元々、自分の剣というものは、師について、法則的な修業を受けたものでないだけに、彼には、自分の力がどの程度のものか、自分ではよく分かっていなかった……」
「柳生流とか吉岡流とかいう正法な剣に向ってみると、自分の剣がいかに野育ちの型も理もない我法であるかがよく分ることだった……」
「彼は、師というものに就かなかったために、その修行の上で、損もし苦しみもしただろうが、師を持たないために、益もあった……」

つまりは武蔵の剣法とは特にちゃんとした師を持たず、流派もない我流、しかも型や法則もない野育ち剣法であるとするのであるが、これは史実と全く違っている。武蔵の養父、宮本無二之助は優れた型体系を保有した當理流兵法の継承者であったことが史料に現れている。実際無二之助直筆の當理流伝書が各地に現存しており、その優れた内容を窺う事が出来るのである。武蔵は同流を幼少の頃より徹底的にたたき込まれており、同流の強豪として若年の頃からかなりの他流試合をこなし、その悉くに勝利しており、ある程度の自信は既にあった筈である。
そして吉岡道場を訪れたおりは「圓明一流」を名乗っていた時期と重なり、その事は武蔵自身が同時期に発行した伝書類が何種類か現存している事で証明される。つまり当時は何と既に武蔵は一流を開いた剣豪であり、秘伝書を発行する様な高弟を多数擁していたわけである。
そして圓明一流は多くの型と優れた術理を内蔵する法則性のある優れた流儀であった事が同流秘伝書から読み取る事が出来る。同書は細かい術理、口伝部分をかなり具体的に記載しており、時期的な立場からも武術史上極めて貴重な資料と言えるものである。

二刀剣法創始
そして吉川武蔵における最大の誤謬は武蔵は修行の果てに二刀剣法を編み出したと云う立場をとっている事である。二刀剣法発明の過程の描写を原典から抽出してみよう。

「鎖と−−鎌と−−双つの手。先の話を聞きながら、彼は彼ひとりの考えをひろげて、(剣は隻手、人間は両手)胸の裡でつぶやいていた」〔梅軒の鎖鎌術に接してのおり〕
「彼の手にはいつか、二つの剣がもたれていた。右手の大刀は血にぬられ……(中略)だが武蔵は二刀を持って敵と戦いながらも、まだ二刀を使っているという意識などは全然ないのである」〔一乗寺下松の決闘のおり〕

つまり宍戸梅軒の鎖鎌との邂逅で二刀剣法の術理を啓発され、一乗寺下松での吉岡軍との多人数戦において無意識の内に二刀を用いていたとする。そしてまた後年村祭りの太鼓の撥捌きから二刀剣法の術理を覚る場面が次に様に描写されている。

「武蔵の眼は、太鼓の座に、太鼓をたたいている舎人の手をじっとてみていたが、『あっ、あれだ! ……二刀は』と突然、辺りをわすれて大きく呻いた」

しかしその発明した二刀剣法をもって戦う場面は以後も僅かしかない。まず梅軒の鎖鎌との勝負において、脇指を手裏剣かわりに用い虚をついて相手を倒す場面が出てくる。これは武蔵兵法では「手裏剣打様之事」と云う実際に存在する極意傳ではあるが、一般的な二刀剣法の戦闘法としてはやや枠外の応用技法である。また三人の敵と戦う多人数戦のおりに、「真っ向の者を、大刀で一颯の下に断ち伏せ、左側の男を、左手で抜いた脇指で、横に薙いだ」と云う風に二刀を用いて他方向の敵に対処する場面が現れる。
そして二刀剣法というものは当時として特殊であり、大変な発明であるとして話題になる場面もある。
「『さらば世にも珍しい御流儀じゃ。二刀流とでもいうので御座るかな?』(中略)……いつも一体一刀のつもりである。いわんや二刀流などと自分から称えたことなどは、今日まで無い事である……」
また小次郎の言葉として「小賢しくも世に知られ、二刀流とか自称しておるそうな……」と云うふうにも語らせている。
このような著述とは裏腹に存外対一で戦う正当なる二刀剣法の技術の描写は殆ど現れず、最後の巌流島の対決もウェーク(櫂)を細工した一本の木刀で戦う事となっている。
つまり『宮本武蔵』の中では意外な事に一般的な意味における二刀剣法の描写は殆ど出てこないのである。武術の世界では武蔵と言えば二天一流の開祖であり、二刀剣法の大御所と云うイメージであるが、吉川武蔵は何故にこの様な描写に終始しているのだろうか。それは恐らく吉川氏の捉え方として武蔵は多くの戦闘を経て、長い修行と研究の果てに二刀剣法を創始し、中年以降にこそ、やっと流儀を纏めて晩年の熊本で二天一流を残したと云うテーゼをもっていたのではなかろうか。

武蔵資料
そしてそれは吉川氏の執筆の時期から言えば、その様な認識を持つことは無理はないのではないかとも思われるのである。当時は武蔵の生涯を記述した資料としては『二天記』位しか表に出ていなかったのだから無理はないのかも知れない。と云うのは同書には武蔵剣法を次のように説明している部分があるのである。
「無二、十手器を用ゆ。武蔵之に代るに短刀を以てす。長短の刀並び用ゆる者武蔵より始まる……」
この様な記述から吉川氏が武蔵が二刀剣法の元祖と考えるのは当然であり、また実際二刀剣法の元祖」という言葉を用いた文献もあった。そして「十手器を用ゆ」との記述から父無二之助の流儀内容を江戸期の捕方が用いる十手術的なもの捉え、武蔵剣法をそれとは別の独自のものと考えたわけである。
しかしながら『二天記』の此処の部分の解釈には難しい問題があり、また同書の後に出てくる「武蔵父新免無二之介信綱と云ふ。剣術を得、当理流と号す。十手二刀の達人也(横点筆者)」と云う記述を見逃している事は残念である。
いかにもしかりであり、実を言えば武蔵の父は確かに十手器も用いるが、二刀剣法の達人でもあったわけである。しかしこの点に関して、「いや、原典では『十手二刀』となっている。と云う事は二刀の達人といっても大小刀を用いた二刀流ではなく、左手に十手を持った変則二刀流ではないか」との論難があるかも知れない。しかし無二之助系の伝書類資料を監査すると確かにその様な十手を用いた変則二刀法も伝えたかも知れないが、一般的な大小刀を用いる二刀剣法をやはり中心にして、伝習されていたことはほぼ間違いないのであり、この点は筆者自身今まで何度か考証してきた所である(平上信行編『極意相傳』一、二巻参照)

圓明一流
武蔵の父の兵法が二刀剣法中心の剣術であり、そしてまた実を言えば青年期の武蔵の剣法も当然の事ながら二刀剣法が中心であったと思われるのである。
この点は武蔵が二十一歳ほどのおりに発行した伝書『兵道鏡』を解析する事によってある程度窺うことが出来る。同書は単なる目録の羅列に止まらず、極意解説と型解説が細かく記載されており、当時の技術を窺うことのできる貴重な資料であるからである。しかしながら少し残念な事は同書はやはり流儀盗みを恐れた為であるのか、かなり詳しく書いてあると云うものの、門外漢には判読できにくい様に記述しており、暈した部分がある様に思われるのである。実際の形の動きは大変に判りづらく、一読して二刀剣法形であると云う事がすぐに判ると云うものではない。しかし良く読むと普通「大刀・小刀」「刀・脇指」と言うように記述するべき所をどうも「太刀・刀」と云うワードを用い、それぞれ「太刀→右の大刀」「刀→左の脇指」と云う様な意味合いで用いているらしい事が判るのである。そしてそれを「組み合わせて構える」と云う様な記述から判定してやはりこの資料は全て二刀剣法の技術を紹介した資料と判定できる。この様な書き方のトリックは同書が他門派に洩れても一読二刀剣法を用いると云う事が直ぐにばれないように独特の表現を用いて記載された資料ではではなかったかと思われるのである。

他系二天一流
『兵道鏡』をよくよく読み込んで何とか青年武蔵の剣法が既に二刀剣法中心であったらしい事までは判明するが、前述した様にその内容を分かりにくく著述しているためにその具体的な技術と動きを復元する事は筆者にはかなり無理である。感性的には大体の技術の傾向は判る気もするが、具体性には欠ける。やはり実際に学んだ者が始めて理解出来る様な記述法を用いているのだろう。吉川英治が舞台とした時代の武蔵の青年期の剣法技術はその意味では幻である。何故なら武蔵が青年期から中年期にかけて指導した門人たちの武蔵剣法の系脈は悉く後に失傳し、現在残るのは最晩年に武蔵が制定し、熊本に残した「五法」を中心とした二天一流のみであるからである。この五法は宮本家古伝剣法とも青年期の武蔵剣法ともかなり違った形態となっており、その意味では決闘者武蔵が本来用いていた技術とは全く相違している。しかしそれでは青年期の武蔵剣法を窺う事は出来ないのであろうか。

藤本左近伝二天一流
此処に一冊の資料がある。題名は『二天流剣術手継書』となっているが、内部にはちゃんと「二天一流」とあり、奥には五輪書の写しが納められているのであるから最初は肥後二天一流の資料かと思われたが、形目録とかなり詳しい形解説が付随し、それを読み込むと現代に伝承する二天一流とは全く相違した内容であり、独特の術理を有する優れた二刀剣法の資料である事が判明するのである。中途には伝系の記載もあるが、この伝系を伝えたのは藤本左近と云う剣客で、肥後の系統とは全く違っている事に驚かされるのである。この系統は小倉藩で伝系を残しており、同流の系統から後に眼心流なる総合武術が産まれている。それはともかく、この秘伝書の優れている事は武蔵伝書とは違い形解説の書き方が真に安易、且つ直截的であり、そのまま形復元も出来る事である。その実際内容は確かに晩年の二天一流とは全く相違し、寧ろ青年期の武蔵剣法に極めて近い内容となっている事に筆者は驚かされたのである。形名や体系には相違があるが、正に無数の真剣勝負に全勝し兵法天下一を称えていた全盛期の武蔵剣法の本質そのものではないかと筆者には感じられたのである。その絶後の内容を探ってゆこう。

実際技術
左近伝二天一流の形手数は九本であり、目録は以下の通り。

一 清眼附
二 打掛
三 打留
四 鯖留
五 突留
六 清眼二越
七 左ノ打掛
八 清眼柄越
九 二ノ鯖

技法内容を分析するとこの内五本までが表で、以下四本が裏形であるといえる。つまり最初の五本の形をもって二刀遣いの古典的な基本操法を学び、残り四本がその裏技と応用、極意という技術内容になっているのである。筆者は最初山東派二天一流を学び、後に秋満紫光先生から宮本伊織伝二天一流袋撓二刀勢法を学んだ者である。そしてこの極めて高度な内容を持つ左近伝二天一流を時間をかけて筆者自身復元研究をなし、武蔵剣法の本質を体得する為は非常に重要な技法伝であることを深く実感したのである。山東派と伊織伝二天一流にも独特の趣と深い術理があるが左近伝二天一流は両者よりも古い形態を持つ実戦二刀剣法であるといえるだろう。
筆者は現在では三系統の二天一流を潤色、混合することなく武蔵流剣法における初伝・中伝・奥伝という体系的なシステムに当てはめて武蔵二刀剣法の全体像を教伝しているのである(また後世の撃剣家たちが編み出した試合勢法を表裏形を三十数本に纏めて第四教伝として伝授する方式をとっている)。
武蔵剣法にはその時期により色々な勢法を残しているが今回は非常に珍しい藤本左近伝二天一流剣法の復元し、その実際技術を紹介することとしよう。青年期の武蔵剣法に御興味のある武蔵研究家、諸賢の参考になれば幸いである。

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